抹香鯨の鉄道事故年表 1980年〜1989年の鉄道事故

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1989年8月27日 天王寺駅列車車止め衝突事故(負傷者31〜45名)

〜 天王寺駅では時々電車が車止めにぶつかる 〜

概要

1989(平成元)年8月27日(日)14時20分頃、大阪府の西日本旅客鉄道阪和線天王寺駅で、和歌山発天王寺行快速列車(103系電車6両編成・乗客約380名)が停止位置を通り過ぎて車止めに衝突した。

原因

運転ミスとされる。雨天時のブレーキのかけ方が適切でないとも、ブレーキが利かなかったともいわれる。

影響

JR西日本では天王寺駅の行き止まりのホームで列車が停車位置を行き過ぎないよう、1990年12月に阪和線天王寺・鳳間でパターン制御式速度照査機能付き自動列車停止装置(ATS−P)を整備した。過去に何度か起きた天王寺駅での車止め衝突事故のひとつとして振り返られる。

1989年4月13日 飯田線北殿駅列車正面衝突事故(負傷者138〜157名)

〜 負傷者数の多さで記憶される正面衝突 〜

概要

1989(平成元)年4月13日(木)16時58分頃、長野県の東海旅客鉄道(JR東海)飯田線北殿(きたとの)駅で、停車中の天竜峡発長野行列車(169系電車3両編成)に上諏訪発天竜峡行列車(119系電車2両編成)が衝突した。列車通学の高校生が多数負傷。

原因

天竜峡行列車の乗務員の運転ミス。出発信号機の進行信号(青信号)と、場内信号機の停止信号(赤信号)を取り間違え、停止信号を進行した。分岐器と自動列車停止装置(ATS−S)の警報とブレーキの動作のタイミングで、列車を止めることができなかったことが分かった。

影響

JR各社で、自動列車停止装置(ATS−S)に即時停止の機能を追加、運転士が停止信号の警報音を確認して列車を進行させても、停止信号で非常ブレーキが作動するようにした。飯田線とJR東海の歴史に刻まれる。

1988年12月5日 東中野駅列車追突事故(死者2名・負傷者113〜116名)

〜 JR発足後初の乗客死亡事故で通勤電車の安全対策を強化 〜

概要

1988(昭和63)年12月5日(月)9時40分頃、東京都の東日本旅客鉄道(JR東日本)中央本線東中野駅で、停車中の西船橋発中野行列車(103系電車10両編成)に、後続の千葉発中野行列車(201系電車10両編成)が追突した。後続列車の運転士と乗客1名が死亡。

原因

後続列車の信号無視と思われる。列車が停止信号を通り過ぎないよう、自動列車停止装置(ATS−S)が鳴動し、5秒で非常ブレーキがかかり列車が止まる。しかし運転士が確認ボタンを押すと鳴動が止まり、自動でブレーキがかからない。東京では列車の本数が多く、平日朝ラッシュ時間帯に確認ボタンの操作が常態化していた。

影響

JR東日本は新型のパターン制御式速度照査機能付き自動列車停止装置(ATS−P)の導入を前倒しした。停車列車と後続列車の電車9両ずつが廃車。1987年4月の国鉄分割民営化後では初めて、乗客に死者を出した鉄道事故として、鉄道とJR東日本の歴史に刻まれる。

1988年3月30日 アルカディア火災事故(負傷者なし)

〜 JR東日本がDMH17系エンジンを一掃 〜

概要

1988(昭和63)年3月30日(水)18時頃、新潟県の東日本旅客鉄道(JR東日本)上越線越後中里・越後湯沢間で、高崎発長岡行団体臨時列車(キハ58系気動車「アルカディア」3両編成、乗員乗客82名)の最後尾車両から出火し1両を全焼した。

原因

ディーゼルエンジンの排気管が過熱し発火したため。乗客は長岡駅主催「アルカディア号でよい子の一人旅 群馬サファリと動物教室」のツアー客で、乗客乗員82名のうち66名がこどもだった。アルカディアはキハ58系急行形気動車3両を改造した欧風気動車。DMH17系ディーゼルエンジンは、第二次大戦中の1941年の基本設計と古いものの、安定性と標準化の観点から日本国有鉄道(国鉄)の気動車の多くに使われ、この当時もJR各社で使われていた。

影響

燃えた1両が廃車。JR東日本では船舶に明るい会長の指示で、気動車のDMH17系エンジンを、1992年までにすべて新型のものに載せ替えた。運輸省では気動車の排気管を原則として客室内に配管しないこととした。

1988年3月24日 中国・上海列車衝突事故(死者29名・負傷者99名)

〜 日本の修学旅行生が多数死傷し大きく報道 〜

概要

現地時間1988年3月24日(木)15時20分頃、中国・上海近郊の南新線匡巻信号所付近で、蘇州発杭州行311急行列車(ND2形機関車+客車16両)と長沙発上海行208急行列車が正面衝突、311急行列車の2両目の客車が1両目の客車に押し潰された。高知県の私立高校の修学旅行生が巻き込まれ、生徒27名と教師1名が死亡し47名が負傷した。

原因

杭州行列車の運転士の運転ミス、信号無視とされる。列車の本数に施設が追いつかない、自動列車停止装置(ATS)がない、ブレーキが利かなかったなどの背景や諸説もある。

影響

日本の修学旅行生が多数死傷したため、国内で大きく報道された。事故の原因に加えて補償問題や責任問題で日本と中国、旅行会社と高校で長らく争いがあり、20年以上経過しても完全には解決されていない。国内の学校で海外への修学旅行が自粛された。

1987年11月18日 イギリス・ロンドン地下鉄キングスクロス駅火災事故(死者31名・負傷者100名以上)

〜 日本でも地下鉄や地下駅の禁煙化が進む 〜

概要

現地時間1987年11月18日(水)19時30分頃、イギリス・ロンドンのロンドン地下鉄キングス・クロス・セント・パンクラス駅で、改札口とピカデリー線を結ぶエスカレーターが火災で焼失した。

原因

客が火の付いたマッチを投げ捨てたため。エスカレーターが木製で、油やほこりが溜まり燃えやすく、30度の勾配が燃焼を助け、駅では火災や避難の訓練をしていなかったことで、被害を拡大したとみられる。

影響

ロンドン地下鉄は地下駅を禁煙とし、地下の木製エスカレーターを金属製に置き換えた。日本でも地下鉄や地下駅が禁煙となった。

1986年12月28日 余部鉄橋列車転落事故(死者6名・負傷者6名)

〜 名物の鉄橋での死亡事故で強風対策を見直し 〜

概要

1986(昭和61)年12月28日(日)13時25分頃、兵庫県の日本国有鉄道(国鉄)山陰本線鎧・餘部間の余部(あまるべ)橋梁で、下り臨時回送列車(DD51形式ディーゼル機関車+14系客車「みやび」7両)のうち客車7両が転落し、約40m下の水産加工場を直撃した。車掌1名と工場作業員5名が死亡、車内販売員3名と工場作業員3名が重軽傷。

原因

客車が橋梁上で突風を受けたため。列車は風速30m以上の突風を受けたと推定される。

影響

改装後1年未満のお座敷客車7両が廃車。全国の鉄道橋などで風速計の増設や適正な位置への移設が進み、運転規制の平均風速から瞬間風速への見直しや、列車の運行を停止する風速を30m/sから25m/sに引き下げる区間が出てきた。現地では列車の運行を停止する風速を25m/sから20m/sに下げ、冬季の不通が常態化した。余部橋梁は2010年8月に鉄橋からコンクリート橋に架け替えられた。有名な鉄橋と特別な車両の事故であり、地元と山陰線と鉄道ファンの記憶に刻まれる。

1986年11月3日 特急にちりん運転打切(負傷者なし)

〜 スイッチがなくて電車が走れない 〜

概要

1986(昭和61)年11月3日(月祝)のおそらく11時30分過ぎ、福岡県の日本国有鉄道(国鉄)鹿児島本線小倉駅で、大分発下関行特急列車「にちりん8号」(485系電車7両編成・乗客約30名)が運転を打ち切った。

原因

電車の運転台に直流電化区間への乗り入れに必要なスイッチがなかったため。かつて上野・新潟間の特急列車「とき」に使われ、1982年11月の上越新幹線開業により使われなくなった直流電車の先頭車を、1984年2月の国鉄ダイヤ改正で先頭車が不足した九州へ、交直流電車に改造し移動した際に、九州内での運転区間はすべて交流電化であるため、交直流を切り替えるスイッチを装備しなかった。1986年11月のダイヤ改正で「にちりん」が下関に乗り入れたことで、関門トンネル(下関・門司間)の直流電化区間での運転が発生した。

影響

該当の電車2両に切替スイッチを取り付けた。該当の車両は1991年と1993年に老朽化のため廃車。にちりん号の下関駅への乗り入れは1992年3月ダイヤ改正で廃止。車両ファンや国鉄特急ファンの間で雑学的に語られる。

1986年3月13日 東急東横線横浜駅電車脱線事故(負傷者なし)

〜 2000年3月の日比谷線事故でクローズアップ 〜

概要

1986(昭和61)年3月13日(木)7時28分頃、神奈川県の東京急行電鉄(東急)東横線横浜駅で、元住吉発桜木町行急行列車(9000系電車8両編成)の最後尾車両が脱線した。

原因

営業運転開始3日目の新型電車が、なぜかS字の急カーブをうまく曲がれなかったもの。2000年3月8日の日比谷線脱線事故の原因調査の中で、S字カーブでの車体のねじれで車輪の左右にかかる重さ(輪重)のバランスが崩れ、低速の運転で車輪がレールに乗り上がったことが知られるようになった。

影響

東急では該当箇所で線路の左右の高さの違いをゆるやかにし、半径450m以下の曲線に脱線防止ガードを取り付け、電車の左右の輪重の違いを10%以内に管理し始めたことが、後に知られるようになった。この事故は新車の脱線で東急ファンには知られていたが、後に全国の鉄道関係者に広まった。

1985年11月27日 国電同時多発ゲリラ事件(負傷者なし)

〜 国民が国鉄に愛想を尽かす 〜

概要

1985(昭和60)年11月27日(水)の未明から早朝にかけて、東京・埼玉・千葉・神奈川・京都・大阪・岡山・広島の各都府県で、日本国有鉄道(国鉄)各線で信号や通信のケーブルが何者かにより切断され、多くの路線が不通となるなどダイヤが混乱した。東京都の浅草橋駅は襲撃と放火を受けて終日閉鎖。

原因

過激派によるゲリラ事件。国鉄分割民営化反対行動の一環と見られる。

影響

世論はますます国鉄解体賛成に傾き、1987年4月の分割民営化を後押ししたと感じられる。

1985年7月11日 能登線急行列車脱線事故(死者7名・負傷者29〜32名)

〜 運転規制に「累積雨量」の考え方を導入 〜

概要

1985(昭和60)年7月11日(木)14時21分頃、石川県の日本国有鉄道(国鉄)能登線古君・鵜川間で、金沢発蛸島行急行列車「能登路5号」(キハ58系気動車4両編成)の全4両が脱線し、3両が築堤を転落した。2両目の乗客7名が車両の下敷きになり死亡、乗員4名と乗客約25名が負傷。

原因

降雨で築堤の盛土が崩れたため。大雨が止み、列車の運転が再開されたが、盛土から水が抜けず、降雨終了後約6時間で崩壊した。

影響

車両は4両すべて廃車。国鉄では古い盛土の排水を改良したほか、降雨時の運転規制に降雨間隔48時間以内の総降水量を取る「累積雨量」の考え方を取り入れた。近年にしては死者数の多い鉄道事故だが紹介例は少ない。国鉄能登線は廃止対象線となり1988年3月からのと鉄道で、2005年3月限りで廃止。

1984年12月21日 上信電鉄列車正面衝突事故(死者1名・負傷者120〜132名)

〜 地方私鉄の優等生が事故で意気消沈か 〜

概要

1984(昭和59)年12月21日(金)7時54分頃、群馬県の上信電鉄千平・下仁田間の赤津信号所付近で、下仁田行列車(6000系電車2両編成)と高崎行列車(100系電車2両編成)が正面衝突。高崎行列車の運転手が死亡。

原因

下仁田行列車の運転士の居眠り運転で停止信号を通り過ぎたためか。自動列車停止装置(ATS)がなかったことや、複雑な列車ダイヤも事故の遠因とされる。

影響

上信電鉄では1985年3月に急行・快速・準急の列車種別を準急に一本化し列車を60本から54本に削減するダイヤ改正を実施、同年12月にATSを整備した。下仁田行列車の運転士は禁固2年の実刑判決。以後の上信電鉄では、新車を買わず中古車を入れたり、電車の鮮やかな車体色をくすんだものに塗り替えたり、見るからに意気消沈という感じを受ける。

1984年10月19日 西明石駅寝台特急「富士」事故(負傷者24〜32名)

〜 タルミ国鉄がまた飲酒運転で列車事故 〜

概要

1984(昭和59)年10月19日(金)1時48分頃、兵庫県の日本国有鉄道(国鉄)山陽本線西明石駅で、宮崎発東京行寝台特急列車「富士」(EF65形式電気機関車+24系客車14両)の寝台客車13両が脱線しホームに激突した。

原因

列車の速度超過。駅の工事のため時速60km制限で渡る分岐器を、酒気帯びの乗務員が普段どおり時速約100kmで通過した。

影響

現地が20日13時頃まで不通。度重なる不祥事で国鉄への信頼はますます失われた。国鉄は新型の自動列車停止装置(ATS)の開発を決め、1986年に西明石駅など3駅に配備された。

1984年5月5日 阪急六甲駅電車衝突事故(負傷者72名)

〜 事故で車掌が鉄道自殺 〜

概要

1984(昭和59)年5月5日(土)11時30分頃、兵庫県の阪急電鉄(阪急)神戸本線六甲駅で、回送列車(山陽電気鉄道3050系電車4両編成)に高速神戸発梅田行特急列車(2000系8両編成)が衝突、回送列車の全4両と特急列車の前3両が脱線した。

原因

回送列車の山陽電気鉄道所属の運転士の運転ミス。車掌の出発合図を確認せず、自動列車停止装置(ATS)のスイッチを切り、ホームのある待避線から本線へ合流し、ホームのない本線を走り六甲駅を通過する特急列車が止まれなかった。

影響

阪急の電車1両が廃車。回送列車の山陽電気鉄道所属の車掌が、事故の11日後に自社線で飛込自殺した。阪急電鉄と山陽電気鉄道との相互直通運転は1998年2月のダイヤ改正で中止された。

1983年8月4日 東北新幹線女児死亡事故(死者1名)

〜 家族とはぐれた女の子が列車を追いかけて新幹線の線路へ 〜

概要

1983(昭和58)年8月4日(火)22時40分頃、宮城県の日本国有鉄道(国鉄)東北新幹線古川・一ノ関間の高清水第1トンネルで、大宮発盛岡行列車「やまびこ35号」(200系新幹線電車12両編成)の運転士が異音を感知した。小学4年生の女児がトンネル内で死亡していた。

原因

女児が新幹線の線路内に立ち入ったため。古川駅で降り遅れた家族とはぐれ、線路を歩いて列車を追いかけたものと考えられる。

影響

かわいそうな事故として報道された。

1983年3月8日 東北本線踏切事故(乗員乗客の負傷者なし)

〜 少女の犠牲で全国の踏切の溝を埋めた 〜

概要

1983(昭和58)年3月8日(火)18時15分頃、栃木県の日本国有鉄道(国鉄)東北本線宇都宮・岡本間の踏切で、小学4年生の女児が黒磯発上野行列車(電車7両編成)に轢かれた。

原因

女児が踏切のレールの溝に足を挟み抜けなくなったもの。

影響

国鉄は全国の踏切のレールの溝にゴムを挿入し、足などが溝に深く入らないようにした。

※2021年3月補訂:事故月の訂正

1982年3月15日 名古屋駅「紀伊」衝突事故(負傷者14名)

〜 飲酒運転で寝台特急に機関車が突っ込む 〜

概要

1982(昭和57)年3月15日(月)2時16分頃、愛知県の日本国有鉄道(国鉄)東海道本線名古屋駅で、停車中の東京発紀伊勝浦行寝台特急列車「紀伊」(14系客車6両編成)に、機関車(DD51形式ディーゼル機関車1両)が衝突した。客車3両が脱線。

原因

機関車の乗務員の運転ミス。寝台特急列車の電気機関車をディーゼル機関車に付け替える駅で、乗務員の飲酒運転により、機関車を客車に連結するのでなく衝突した。

影響

機関車と客車1両が廃車。国鉄への信頼がますます失われた。寝台特急「紀伊」は利用低迷のため1984年2月ダイヤ改正で廃止。

1982年1月29日 天王寺駅列車車止め衝突事故(負傷者27〜55名)

〜 天王寺駅では時々電車が車止めにぶつかる 〜

概要

1982(昭和57)年1月29日(金)8時25分頃、大阪府の日本国有鉄道(国鉄)阪和線天王寺駅で、和歌山発天王寺行快速列車(101系電車6両編成・乗客約1,400名)が停止位置を通り過ぎて車止めに衝突した。

原因

列車の乗務員の運転ミス。教導運転士のブレーキの指示の遅れで、見習いの運転士がブレーキをかけ遅れたらしい。

影響

新型の自動列車停止装置(ATS)の開発を促した。過去に何度か起きた天王寺駅での車止め衝突事故のひとつとして振り返られる。

1981年6月6日 インド・ビハール州列車転落事故(死者800名以上?)

概要

現地時間1981年6月6日、インドのビハール州で列車が鉄橋からバグマティ川に転落したらしい。

原因

荒天、洪水、またはブレーキの故障で水牛と衝突したといわれる。

影響

ギネスブックが一時、犠牲者数で史上最悪の鉄道事故として掲載したらしい。

1981年5月13日 いなほ号脱線復線事故(負傷者なし)

概要

1981(昭和56)年5月13日14時25分頃、東京都の日本国有鉄道(国鉄)東北本線尾久・赤羽間で、上野発秋田行特急列車「いなほ2号」の3両目の一軸が脱線、約1.2km走行して復線した。

原因

レールの継目板のボルトが緩んだため。

影響

現地が約1時間不通。まるで鉄道模型のような出来事だと、不思議がられる。

1980年2月20日 京阪電車置石脱線事故(負傷者104名)

概要

1980(昭和55)年2月20日(水)20時59分頃、大阪府の京阪電気鉄道(京阪)京阪本線枚方市・御殿山間で、淀屋橋発三条行急行列車(5000系電車7両編成・乗客約400〜1000名)の先頭3両が脱線し、先頭車が民家に突っ込んだ。

原因

中学2年生の5人組が線路にコンクリートのふたを置いたため。

影響

先頭車1両が廃車。京阪は示談しない1人に対して損害賠償を求める訴訟を起こし、1982年の大阪地方裁判所判決では責任を認め、1984年12月の大阪高等裁判所判決では責任を認めず、1987年1月の最高裁判所判決では責任を認めて大阪高等裁判所に差し戻し、後に和解した。度が過ぎるいたずらとして鉄道ファンや京阪ファンの記憶に残るほか、2005年4月の福知山線脱線事故で、JR西日本が事故直後の記者会見で置き石が事故の原因だとにおわせたため、この事故が振り返られた。

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最終更新 2012年3月2日
管理者 まっこうくじら
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