1918(大正7)年3月7日(木)4時30分過ぎ、群馬県の鉄道院信越本線熊の平・軽井沢間で、登り勾配を走行中の下り貨物列車の電気機関車が故障、勾配を退行し熊の平駅で引込線に進入、トンネル内壁に激突した。乗務員2名と駅員2名が死亡、乗務員4名が負傷。
電気機関車の故障によるもの。67パーミル(6.7%)の急勾配区間で、当時はレールの間に歯車を設置し電気機関車に噛み合わせて上り下りする方式で運行されていた。
いわゆる「横軽(よこかる)」(信越本線横川・軽井沢間)の、電気機関車アプト式時代の大事故として刻まれる。これと、蒸気機関車時代の1901年7月13日の旅客転落と、電気機関車粘着運転時代の1975年10月28日の脱線事故が、横軽を語る際に振り返られる。横軽は長野新幹線の開業に伴い1997(平成9)年10月に廃止。
※2005年4月補訂:概要と影響の文面の見直し現地年月日1917年1月1日(西暦1917年1月13日)1時頃、ルーマニア・ヤシ県のチュレア駅で、下り勾配を暴走した列車(蒸気機関車2両+客車26両編成)が脱線、転覆、全焼した。犠牲者数は不詳とされる。
列車のブレーキが利かなかったため。列車はドイツ軍の攻撃から逃れようとする住民やロシア兵などで満員だったという。ルーマニアを含む連合国側と同盟国側が戦争をしていた第一次大戦中の事故であり、報道や公式な記録がなかったという。
犠牲者数で世界最悪級の鉄道事故として、世界の鉄道史に刻まれる。日本国内で振り返られることは、ほとんどないと思う。
1916(大正5)年11月29日(水)23時40分頃、青森県の鉄道院東北本線下田・古間木間で、下り臨時旅客列車(8620形式蒸気機関車+客車18両編成)と上り貨物列車(3200形式蒸気機関車+貨車20両編成)が正面衝突した。
古間木駅の駅員が不正に信号を取り扱ったため。1枚の通票(タブレット)を持つ列車のみが運行できる単線区間で、駅員が他の職員に知らせず臨時旅客列車のために通票閉塞器を取り扱い就寝、これにより通票を出さない閉塞器を、他の駅員が故障と判断し、不正な操作で通票を出して貨物列車の乗務員に渡し列車を出発させ、単線区間にふたつの列車が進入した。通票を落としたり無くした場合などのため、通票閉塞器から通票を出す手順が、駅員に周知されていた。
通票閉塞器の不正な取り扱いの防止と信頼性の向上を図ったという。古間木駅は1961(昭和36)年3月から三沢駅。この区間の東北本線は2010(平成22)年12月から青い森鉄道。
写真:かつて使用された通票閉塞器(鹿児島県 JR肥薩線 嘉例川駅 2021年3月撮影)
1913(大正2)年10月17日(金)4時23分、富山県の鉄道院北陸本線東岩瀬駅で、下り臨時貨物列車と上り臨時旅客列車が衝突した。
貨物列車の停止位置の行き過ぎ、旅客列車の乗務員の信号の見落とし、あるいは信号の消灯と考えられる。停止位置を過ぎて単線区間に進入した貨物列車が退行中に、旅客列車が衝突した。
列車が停止位置を通り過ぎても単線区間に進入しないよう分岐器を設けて、列車を脱線させたり緩衝材で止める「安全側線」が全国で整備された。現在も多くの駅で使用される。東岩瀬駅は1950(昭和25)年5月から東富山駅。この区間の北陸本線は2015(平成27)年3月からあいの風とやま鉄道。
写真:安全側線(熊本県 JR豊肥本線 波野駅 2021年3月撮影)
1909(明治42)年2月28日(日)夜、北海道の鉄道院天塩線蘭留・和寒間で、名寄発の上り旅客列車の最後尾車両が下り勾配を暴走、乗務員が車両を止めるため下敷きとなり死亡した。
最後尾車両の連結が外れたため。現在の列車は連結が外れると自動で止まるが、当時はその仕組みが車両になかった。
この事故を題材に三浦綾子が小説「塩狩峠」を著し、1968年9月に刊行されベストセラーとなり、1973年12月には映画化された。天塩線は宗谷線を経て1919年10月から宗谷本線。塩狩駅は事故後の1916年9月に信号所として開設され1924年11月に駅となった。
1901(明治34)年7月13日(土)20時40分頃、群馬県の信越線熊の平・軽井沢間で、下り長野行混合列車から乗客2名が転落して死亡した。蒸気機関車の故障で乗務員2名が負傷。
蒸気機関車の故障でブレーキが利かなくなった列車が下り勾配を退行した際に、乗客が自主的に列車から飛び降りたため。日本鉄道株式会社の技師長は、67パーミル(6.7%)の急勾配区間での列車退行に危機を感じ、息子とともに列車から逃げたものだと考えられる。列車は後に停止し、他の乗客は無事だった。
不運な話として現在まで語り継がれるほか、いわゆる「横軽(よこかる)」(信越本線横川・軽井沢間)の、蒸気機関車時代の事故として刻まれる。これと、電気機関車アプト式時代の1918年3月7日の衝突事故と、電気機関車粘着運転時代の1975年10月28日の脱線事故が、横軽を語る際に振り返られる。横軽は長野新幹線の開業に伴い1997(平成9)年10月に廃止。
1895年10月22日(火)、フランス・パリのモンパルナス駅で、グランビル発モンパルナス行急行列車(721号蒸気機関車+客車12両)が停止位置を通り過ぎて駅舎を突き破り、蒸気機関車が道路上に転落した。道路上の通行人が死亡、乗客や通行人などが負傷。
乗務員のブレーキ操作の遅れ、またはブレーキの故障と考えられる。
機関車が駅舎を突き破りもたれかかる写真が有名になり、時代や事故の規模の割にはよく知られる。
写真:事故写真(モンパルナス駅)wikipediaより引用(https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Train_wreck_at_Montparnasse_1895.jpg)
1885(明治18)年10月13日(火)1時頃、東京府の大森駅で、折り返し中の新橋発大森行臨時旅客列車の客車4両が脱線し、うち1両が転覆した。乗客1名が死亡し1名が負傷。
不明。分岐器の誤切替か破損故障が原因という説がある。池上本門寺の御会式輸送により現場が混乱していたという。
日本国内で初めての鉄道旅客死亡事故として歴史に刻まれた。
1879年12月28日(日)19時頃、イギリス・スコットランドのテイ湾で、鉄橋が崩壊し、バーンティスランド(Burntisland)発ダンディー(Dundee)行列車(蒸気機関車+客車5両+緩急車)が湾内に転落、乗員乗客の全員が死亡した。死者は75名とされるが、正確な数値は不明。
鉄橋の設計、施工、管理ミス。ノース・ブリティッシュ鉄道がテイ湾に当時世界最長となる全長3km以上の鉄橋を架ける際、245フィート(74.7m)の桁について構造計算で風の影響を過小に計上、製造した桁の鋳鉄の品質にも不具合があり、開通後の修理や保守も不十分だったという。該当の区間は嵐の中で列車の重さに耐えられず、1878年6月の開通から1年半で崩壊してしまった。
材料を鋳鉄から銑鉄から鋼鉄に変えたり、風の影響を荷重で計上する量や手法を見直すなど、鉄橋の設計や施工に関する技術の改良を促した。
1877(明治10)年10月1日(月)21時頃、兵庫県の西ノ宮・住吉間で、上り旅客列車と下り回送列車が衝突した。旅客列車の乗務員が2名死亡し1名負傷、回送列車の乗務員が1人死亡し1人負傷。乗客の負傷者は記録されていない。
回送列車の乗務員の、ダイヤと信号の見落としと考えられる。西南戦争の軍事輸送で上り旅客列車の前に運転された臨時列車が来て、雷雨の中で下り回送列車が西ノ宮駅を出発し、単線の駅間で上り旅客列車と正面衝突した。
日本国内で初めての鉄道死亡事故として歴史に刻まれた。また、ひとつの区間には票券を持つひとつの列車のみを入れる、票券閉塞方式の導入が前倒しされた。この区間は1895年4月から東海道線、1909年10月から東海道本線。西ノ宮駅は2007年3月から西宮駅。
1874(明治7)年10月11日(日)8時15分、東京府の新橋駅で、横濱発新橋行列車の機関車と貨車が脱線し転覆した。負傷者なし。
分岐器の故障と思われる。
事故当日は列車が全面運休。日本国内で初めての鉄道事故として歴史に刻まれた。新橋駅は1914年12月から汐留駅、1986年11月に廃止。
1841年12月24日(金)6時50分頃、イギリス・グレートウェスタン鉄道のソニング掘割(Sonning Cutting)で、ロンドン・パディントン発ブリストルテンプルミード行列車(蒸気機関車+客車+貨車)が、線路上の土砂に乗り上げて脱線、客車が機関車と貨車に挟まれ押し潰された。
長雨により掘割の斜面の土砂が線路上に崩壊したため。当時のイギリスの客車は、座席も屋根もない構造であり、事故により重い機関車と重い貨車の間で押し潰されたことで、人的な被害を拡大したと思われる。
英国議会は1844年に鉄道規制法を制定、三等車のある各駅停車を一日1往復以上運転し、運賃は1マイルあたり1ペニーとし、平均時速は12マイル(時速約19km)を下回らず、3等車は雨風をしのげる構造とし座席を設ける規制を設けた。これが鉄道の大衆化を後押しし、この事故が法律の制定を後押ししたと紹介する考察がある。
1830年9月15日(水)、イギリス・リバプール・アンド・マンチェスター鉄道のパークサイド駅で、政治家のウィリアム・ハスキソンが列車に轢かれて死亡した。
乗客が列車が入る線路に立ち入ったため。この日は世界初の鉄道、運賃を払えば乗れる列車が定期的に運行される世界初の鉄道の開業日。政治家はその記念列車に乗り、途中の駅で停車中に隣の線路に降りてしまい、後続の列車に轢かれた。
世界で初めての鉄道人身事故として歴史に刻まれた。重傷の政治家を乗せた臨時列車は、パークサイド駅からマンチェスターのリヴァプール・ロード駅までの約24kmを約25分で走り、機関車の優れた性能を証明した。