1979年6月2日(土)4時31分頃、長野県の日本国有鉄道(国鉄)信越本線篠ノ井駅で、貨車7両に名古屋発長野行修学旅行専用列車(165系電車8両編成・乗客540名)が衝突し、先頭から1〜2両が脱線した。
構内作業ミス。駅で貨車を移動し列車を編成する入替作業で、貨車に勢いを付けて自走させる、突き放して転がす「突放」(とっぽう)を行ったところ、貨車7両が本線へ流れ出てしまい、列車と正面衝突した。
電車1両が廃車。修学旅行の中学生が多数負傷したため、新聞で大きく取り上げられた。
1978(昭和53)年2月28日(火)21時34分、東京都の帝都高速度交通営団(営団)東西線南砂町・葛西間の荒川中川橋梁で、西船橋発中野行列車(5000系電車10両編成)の後部3両が脱線、うち2両が横転した。
電車が橋梁上で突風にあおられたため。当日夜は東京で春一番の強風が吹いていた。東西線は地下鉄であるが、この荒川中川橋梁から西船橋駅までは高架橋や橋梁を走行する。
東陽町・浦安間が3月2日まで不通。電車2両が廃車。世にも珍しい、地下鉄の風による脱線事故として、よく振り返られる。
1977(昭和52)年3月8日(火)20時30分、群馬県の日本国有鉄道(国鉄)上越線津久田・岩本間で、上野発新潟行急行列車「佐渡3号」(165系電車13両編成・乗客837名)が線路上の落石に衝突、4両が脱線し、うち先頭車が国道に転落した。乗客1名が搬送後死亡。
線路上に約30tもの巨岩が落ちていたため。
現場が3月9日22時まで不通。被害の大きい落石事故として上越線と土木工学の歴史に刻まれる。国は翌年度に防災補助金制度を新設した。
1976(昭和51)年10月2日(土)4時48分頃、北海道の函館本線駒ヶ岳・姫川(信号所)間で、下り貨物列車(DD51形式ディーゼル機関車+貨車40〜41両)の機関車と貨車40両が脱線した。
列車の速度超過。運転士が機関車を加速したまま居眠りし、半径300mのカーブを曲がりきれなかった。
脱線した車両の数で、国内最悪の脱線事故とされる。
1976(昭和51)年9月4日(土)16時30分頃、大阪府の日本国有鉄道(国鉄)東海道本線千里丘・茨木間で、大阪発京都行臨時列車「京阪100年号」(C57形式蒸気機関車+12系客車9両編成)に、線路上の男子小学生がはねられて死亡した。
男子小学生がSLの写真を撮るために線路に立ち入ったため。当時は1975年の蒸気機関車の引退による空前のSLブームで、沿線には10万人の人出があった。
列車は高槻駅でSLを切り離し電気機関車の牽引で運転。事故がマスコミに大きく取り上げられ、国鉄は大都市でのSL復活運転を取りやめた。いわゆる「撮り鉄」の人身事故、鉄道ブームの過熱を象徴する出来事、鉄道写真撮影マナーに関する事故として、今も度々振り返られる。なお、事故列車の蒸気機関車は、今もJR山口線「SLやまぐち号」で現役のC571号機。
1976(昭和51)年4月13日(火)23時45分頃、北海道の日本国有鉄道(国鉄)追分機関区で火災が発生、木造の扇形機関車庫1棟と、蒸気機関車5両(9600形式1両、D51形式4両)とディーゼル機関車8両(DD51形式7両、DE10形式1両)が全焼した。
火災のため。火災の原因は不明。
1975年12月に国内最後のSL列車(夕張線貨物列車)を牽引し、地元や東京で保存予定であった蒸気機関車が、代替の最新鋭ディーゼル機関車とともに失われた。鉄道車両ファンや蒸気機関車ファンの記憶に強く残る。
1975(昭和50)年10月28日(火)6時頃、群馬県の日本国有鉄道(国鉄)信越本線横川・軽井沢間で、軽井沢発横川行回送列車(EF62形式電気機関車2両+EF63形式電気機関車2両)が脱線し、全4両が築堤下に転落した。乗務員が負傷。
列車の過速。66.7パーミル(6.67%)の急な下り坂で、列車の速度が出過ぎてブレーキが効かなかった。
転落写真とトンネルの傷が残された。いわゆる「横軽(よこかる)」(信越本線横川・軽井沢間)の、電気機関車粘着運転時代の事故として刻まれる。これと、蒸気機関車時代の1901年7月13日の転落事故と、電気機関車アプト式時代の1918年3月7日の衝突事故が、横軽を語る際に振り返られる。横軽は長野新幹線の開業に伴い1997(平成9)年10月に廃止。
1973(昭和48)年12月26日(水)8時12分頃、大阪府の日本国有鉄道(国鉄)関西本線平野駅で、湊町発奈良行普通列車(113系電車6両編成)の全6両が脱線し先頭車1両が転覆した。
運転士の信号無視。運転士が各駅停車を平野駅通過の快速列車と勘違いしたうえで、意識がもうろうとして駅の注意信号(黄信号)を見落とし、時速35km制限の分岐器を高速で通過した。
現地が12月27日9時頃まで不通。先頭車1両が廃車。国鉄はパターン制御式速度照査機能付き自動列車停止装置(ATS−P)、先方の停止信号や速度制限に応じて手前から自動で列車の速度を落とすタイプの信号の開発を進めた。また、運転士の勘違いを防ぐため、関西本線の113系電車を快速列車専用とした。湊町駅は1994(平成6)年9月からJR難波駅。
1973(昭和48)年3月21日(水)17時30頃、大阪府の日本国有鉄道(国鉄)東海道新幹線京都・新大阪間で、大阪運転所発新大阪駅行回送列車(0系新幹線電車16両編成)の先頭車が脱線した。
回送列車が停止信号を冒進したため、回送列車が誤って本線に出てしまった。車内信号で強制的に止まるはずの列車が止まらなかったのは、信号の故障かレールのスリップか不明。加えて分岐器を通り過ぎた状態で引き返したため脱線した。本線を走行中の新幹線こだま号が急停車でき、衝突を免れた。
新幹線の営業時間内の本線上での初めての重大運転事故として、新幹線の歴史に刻まれる。新幹線の安全性を疑問視する文献や論文で必ず引用される。
1973(昭和48)年3月13日(火)7時過ぎ、埼玉県の日本国有鉄道(国鉄)高崎線上尾(あげお)駅で、多くの客が駅や電車を破壊した。
列車の遅れや運休による混雑。国鉄の労働組合の闘争で、列車の遅れや運休が重なり、超満員の通勤電車で乗客が暴徒化した。駅で大勢の客が電車に乗れない中で、定員の少ない急行形電車が来て、しかも大宮駅で運転を打ち切ると案内されたことが、発火点になったという考察がある。
国鉄と国鉄の労働組合への信頼がますます失われた。国鉄は電車を追加で購入し、急行形電車の首都圏での平日朝ラッシュ方向への運用を避けるようになった。
1972(昭和47)年11月6日(月)1時10分頃、福井県の日本国有鉄道(国鉄)北陸本線敦賀・今庄間の北陸トンネルで、大阪発青森行急行列車「きたぐに」(EF70形式機関車+客車15両・乗員30名乗客約760名)の、11両目の食堂車で火災が発生し全焼した。機関士と乗客29名が死亡、乗員21名と乗客690名と公衆3名が負傷。
車両火災のため。火災そのものの原因は、食堂車の石炭レンジの不具合が指摘されたが不明。当時の規定により、乗務員は列車を停止し、火災車両の後部の連結を外して少し進み、火災車両の前部の連結を外して進み、火災車両をその他の車両から離す手順を踏んだが、火災で停電し運転が不能となり、多くの乗員乗客が煙に巻かれた。事故前の1969年12月に同じ北陸トンネルで寝台特急列車「日本海」の電源車から出火した際、乗務員は運転を続けて列車をトンネルから出し、乗務員と消防団で消火し負傷者が出なかったが、国鉄は規程違反を理由に乗務員を処分していた。
国鉄は石炭レンジを使う食堂車を全廃し夜行急行列車の食堂車を廃止、岩手県や北海道で車両の実物を燃やす試験を行い、規程を改正しトンネル内での列車火災時には列車をトンネルから出すこととし、日本海の乗務員への処分を撤回した。運輸省は1973年10月に「電車の火災事故対策の一部改正について」を通達、山岳トンネルを運転する車両の火災対策基準を強化した。重大な列車火災事故として、鉄道史や消防史や福井県史に刻まれる。
1972(昭和47)年7月5日(水)10時55分頃、高知県の日本国有鉄道(国鉄)土讃本線繁藤(しげとう)駅で、高知発高松行快速列車(DF50形式ディーゼル機関車+客車4両)が土石流に巻き込まれ、機関車と客車1両が穴内川に転落し、客車1両が脱線した。犠牲者の数には乗客の他に住民や消防団員などが含まれる。
大雨により斜面が崩壊したため。この年の7月3日から西日本全域で豪雨と災害が起きていた。繁藤では600mm以上の雨が降り、当日6時45分頃に消防団員1名が生き埋めになる土砂崩壊があり、捜索活動が行われ、列車が停止していた。
現地が7月28日まで不通。遺族が消防団の不法行為責任で高知県と土佐山田町を訴える、自然災害で行政の責任を問う全国初の裁判となり、1982年10月の高知地方裁判所で人災とし賠償を認め、1988年1月の高松高等裁判所で天災とし賠償を認めず、1991年9月に最高裁判所で和解が成立。高知県の防災行政が見直された。高知県と法学と土讃線の歴史に刻まれる。
1972(昭和47)年3月28日(火)7時21分頃、千葉県の日本国有鉄道(国鉄)総武本線船橋駅で、中野行列車(101系電車10両編成)に、後続の三鷹行列車(101系電車10両編成)が追突した。
三鷹行列車の運転士の運転ミス。停電で信号が故障し中野行列車が止まる中、自動列車停止装置(ATS)の鳴動を故障と判断し、消灯のため停止しなければならない信号を通り過ぎた。平日朝ラッシュ時間帯で乗客が多く、多数の負傷者が出た。
負傷者数で国内最悪の事故とされるが、あまり紹介例はない。
1971(昭和46)年10月25日(月)15時58分頃、三重県の近畿日本鉄道(近鉄)大阪線榊原温泉口・東青山間の総谷トンネル西側入口で、上本町発近鉄名古屋行特急列車(12200系・12000系電車4両編成)と賢島発近鉄難波・京都行特急列車(12200系・10100系・18200系電車7両編成)が正面衝突した。
近鉄名古屋行特急列車のブレーキ故障。東青山駅でブレーキが故障で解除できなくなり、乗務員が車輪に輪止め(手歯止め)をして配管の空気を抜いてブレーキを緩めた一方で、駅員が輪止めを外してしまい、ブレーキの利かない列車が急な下り坂を転げ落ちた。
現地が10月29日1時まで不通。特急電車4両が廃車。近鉄は大阪線の複線化を決め、1975年11月に完成した。近鉄と近鉄特急の歴史と、近鉄ファンの記憶に刻まれる。
1971(昭和46)年3月4日(木)8時25分頃、山梨県の富士急行線暮地・三ツ峠間で、河口湖発大月行列車(3100形電車2両編成・乗客約120名)が脱線転覆した。
列車の過速。月江寺駅付近で列車とトラックが衝突し、電車のブレーキが壊れ、列車が急な下り坂で約4km暴走し、半径240mの曲線を曲がりきれなかった。
現地が3月5日8時過ぎまで不通。運輸省は7〜10月に鉄道車両制動装置について3本の通達を実施、車両に常用ブレーキとは別に保安ブレーキを備えることとした。富士急行では車両の番号に「4」と「9」を付けないこととした。不運かつ悲惨な踏切事故として語り継がれ、ブレーキ故障による列車事故が起きる度に振り返られる。
1971(昭和46)年2月11日(木)2時52分、栃木県の日本国有鉄道(国鉄)東北本線野崎・西那須野間で、上野発仙台・会津若松行急行列車「あづま2号・ばんだい6号」(EF58形式電気機関車+客車13両)が後退し、後続の大宮操発長町行貨物列車(EF15形式電気機関車+貨車41両)と衝突した。急行列車の郵便車に貨物列車の機関車と貨車4両が脱線。乗員8名と乗客32名が重軽傷。
急行列車の乗務員の酒気帯びによる居眠り運転。急行列車は登り勾配で停止し後退した。急行列車の退行に他の乗務員が気が付かなかった。
現地が約半日不通。不思議な事故として語り継がれる。
1970(昭和45)年4月8日(水)17時45分頃、大阪府の大阪市交通局谷町線天神橋筋六丁目駅の工事現場でガス爆発が起きた。
ガス漏れ。道路の下にトンネルを造るため、道路下の掘削で露出し吊した都市ガスの、配管が緩みガスが多量に漏れた。まず火災が起き、通行人が野次馬として群がったところ、爆発で道路を支える重さ380kgの鉄板が約1500枚吹き飛び、人々を襲った。
ガス管の吊り防護を避けて切り回す、ガス管を外れにくくする、監視と通報の態勢を強化するなど、道路工事や地下鉄工事でのガスの安全対策が強化された。日本万国博覧会(大阪万博)の社団法人日本瓦斯協会「ガス・パビリオン」が翌日一日休館。