1949(昭和24)年8月17日(水)3時9分頃、福島県の日本国有鉄道(国鉄)東北本線松川・金屋川間で、青森発上野行列車(C51形式蒸気機関車+客車12両)の機関車と客車5両が脱線した。機関車の乗員3名が死亡、乗員5名と乗客4名が負傷。
線路を何者かが破壊したため。曲線区間で、2本のレールをつなぐ継目板が外され、レールを枕木に固定する犬釘が多数抜かれていた。国鉄の職員約9.5万人削減計画との関連性が疑われている。
左翼系の労働組合員20名が容疑者として逮捕されたが、最高裁で無罪判決。「三鷹事件」「下川事件」とともに、国鉄発足時の謎の事故として歴史に刻まれる。
1949(昭和24)年7月15日(金)の夏時間21時23分頃、東京都の日本国有鉄道(国鉄)中央本線三鷹駅で、三鷹電車区に留置中の車両(電車7両編成)が動き出して加速し、駅舎や派出所や民家などを破壊した。
不明。国鉄の職員約9.5万人削減計画との関連性が疑われている。
共産党系の労働組合員など11名が容疑者として逮捕され、1人が死刑で他は無罪。「松川事件」「下川事件」とともに、国鉄発足時の謎の事故として歴史に刻まれる。
1948(昭和23)年3月31日(水)7時52分頃、大阪府の近畿日本鉄道奈良線河内花園駅で、上本町行普通列車(電車2両編成)に、近畿日本奈良発上本町行急行列車(電車3両編成)が追突した。
電車の整備不良。急行列車のブレーキホースが破損し、ブレーキが利かなくなり、生駒トンネルからの下り勾配を暴走した。第二次大戦後の物資の不足が事故を起こし、第二次大戦後の乗客の激増が被害を拡大したとされる。
近鉄では生駒トンネルを走る電車の直通ブレーキを自動空気ブレーキに改良した。戦後の混乱の中の大事故、近鉄の大事故、生駒トンネルやその前後で起きた大事故のひとつとして、鉄道史と近鉄ファンの記憶に刻まれる。
1948(昭和23)年1月5日(月)10時15分頃、愛知県の名古屋鉄道(名鉄)瀬戸線大森駅付近で、尾張瀬戸発堀川行急行列車(電車2両編成)の後部車両が脱線し転覆、先頭車両も転覆した。
列車の速度超過。新人で不慣れな運転士が、半径160mの急カーブで急ブレーキをかけて、電車が後部から転覆したと思われる。熱田神宮の初詣輸送による満員電車で被害が拡大した。
瀬戸電こと名鉄瀬戸線で史上最大の惨事として、名鉄ファンの記憶などに刻まれる。
1947(昭和22)年2月25日(火)7時50分頃、埼玉県の運輸省八高線東飯能・高麗川間で、八王子発高崎行列車(C57形式蒸気機関車+客車6両)の客車の後ろ4両が脱線し、盛土を転げ落ちた。
10パーミル(1%)の下り勾配で超満員の客を乗せ、列車のブレーキが利きにくくなり、超満員の乗客で車両の重心が高くなり、半径250mの曲線で車両が倒れた、複合的な要因と考えられる。車両の車体が木造であり、自己で破壊されて被害が拡大した。
鉄道省(1949年6月から日本国有鉄道)では木造客車の車体を鋼製にする改造を進め、1955年までに完了した。犠牲者数で国内史上2番目の鉄道事故として歴史に刻まれる。また、同じ八高線の2年前の事故と合わせて紹介されることが多い。
1946(昭和21)年6月4日(火)8時24分、東京都の運輸省中央本線大久保・東中野間で、東京行電車(電車6両編成)の4両目の乗降扉が壊れて外れ、乗客が神田川へ転落した。死者数は遺体が川から引き揚げられた数で、もっと多くの客が転落したと指摘する文献もある。
電車の超満員による圧力に乗降扉が耐えられなかったため。
運輸省では電車の乗降扉に外れ止めを付けた。また、木製の乗降扉を鋼鉄製に取り替えた。
1946(昭和21)年1月28日(月)、神奈川県の東京急行電鉄小田原線大根・渋沢間で、新宿発小田原行列車(電車2両編成)が停止のち逆行し暴走、鶴巻駅付近で脱線転覆した。
設備や電車の故障。停電で停止した電車が、乗務員の点検中に坂道を下り始め、ブレーキの利かない無人電車となってしまった。故障の内容や原因は不詳。
小田急の歴史と小田急ファンの記憶に刻まれる。小田原線は1948年6月から小田急電鉄、鶴巻駅は1958年4月から鶴巻温泉駅、大根駅は1987年3月から東海大学前駅。
1945(昭和20)年8月24日(金)7時40分頃、東京都の運輸省八高線小宮・拝島間の多摩川橋梁で、八王子発高崎行列車(8850形式蒸気機関車+客車5両)と、寄居発八王子行列車(8850形式蒸気機関車+客車5両)が衝突、全12両の車両が橋から落ち、雨で増水した川に流された。
駅員の連絡ミス。前日の雷雨で信号が故障し、規定により通票に代えて人を乗せて両駅間の電話連絡により駅間にひとつの列車のみを入れる「指導式」を施行したところ、小宮駅と拝島駅の連絡の行き違いで、ふたつの列車が駅間に入り、橋の上で正面衝突した。
犠牲者数の多い鉄道事故として歴史に刻まれる。また、同じ八高線の2年後の事故と合わせて紹介されることが多い。2003年11月13日に河川敷で2001年発見の車輪を引き上げ、2004年から河原の公園で展示される。
1945(昭和20)年8月22日(水)12時7分頃、熊本・宮崎県境の運輸省肥薩線吉松・真幸間の山神第二トンネルで、鹿児島発八代行列車(D51形式蒸気機関車2両+客車12両)が勾配を登れなくなり停車。乗客の窒息防止のため、勾配を利用して後退を始めたところ、線路に下りて歩いていた乗客を次々にはねた。
客が線路に降りたため。国の公式記録には、多量の荷物を持ち不法に乗車したため重さで止まった列車の乗客の無統制騒擾(そうじょう)を原因とする。しかし、第二次大戦後の超満員列車が、劣化した機関車や品質の落ちた石炭で坂道を登れなくなり、照明も誘導もないトンネル内で煙に巻かれた、戦争の悲劇であると今は紹介される。
戦争の悲劇としてよく紹介される。肥薩線の観光列車「しんぺい」「いさぶろう」の車内でも放送される。
1945(昭和20)年8月8日(水)11時頃、福岡県の西日本鉄道大牟田線筑紫駅付近で、西鉄福岡発大牟田行列車(100形電車2両編成、乗客約200名)と、久留米方面発西鉄福岡方面行列車(200形電車2両編成、乗客約20名)が、米軍機の機銃掃射を受けた。乗客や死傷者はもっと多いともされる。
太平洋戦争によるもの。満員の電車が田園の中で遮るものがない駅にて襲われたことで、被害が拡大したと考えられる。
西鉄電車史上最悪の惨事として社史に刻まれるほか、今も毎年のように新聞などで振り返られる。弾痕の残るホーム上の待合室が、福岡県筑紫野市の筑紫多目的公民館の横に移築保存され、慰霊祭が毎年行われる。
1945(昭和20)年8月5日(日)、東京都の運輸省中央本線浅川駅を出発した新宿発長野行列車(ED16形式電気機関車+客車8両)が、湯の花トンネル付近で米軍機の機銃掃射を受けた。死傷者はもっと多いという指摘がある。
太平洋戦争によるもの。
国内最悪の列車銃撃事件として鉄道史と戦史に刻まれる。浅川駅は1961(昭和36)年3月から高尾駅。
1944(昭和19)年11月19日(日)1時56分頃、兵庫・岡山県境の運輸通信省山陽本線上郡・三石間で、停止中の下り旅客列車(C57形式蒸気機関車+客車11両)に、後続の下り貨物列車(D52形式蒸気機関車+貨車56両)が追突、旅客列車の客車5両が脱線し大破、貨物列車の機関車と貨車4両が脱線した。
下り貨物列車の乗務員の居眠り運転とみられる。
後に貨物列車の機関士が蒸気機関車の火室で焼身自殺。鉄道事故の責任を精神論で当事者のミスにのみ求め、仕組みの不備や事後の教訓を軽視する風潮の、犠牲者の一例として紹介されることがある。
1944(昭和19)年9月3日(日)18時頃、和歌山県の高野山電気鉄道紀伊細川・上古沢間で、難波発極楽橋行列車(電車2両編成)が車両火災で停止、逆走し下り坂を暴走して脱線転覆した。
不明。
南海ファンの記憶に刻まれる。高野山電気鉄道は1947年3月から南海電気鉄道で、現在の高野線。
1944(昭和19)年3月12日(日)8時頃、岩手県の運輸通信省山田線平津戸・川内間で、鉄橋が雪崩で崩壊、下り貨物列車(C58形式蒸気機関車+貨車5〜13両)が進入し転落した。列車の機関士が死亡し、機関助士が負傷。
崩壊した鉄橋に列車が進入したため。吹雪で視界が悪かったという。
機関士が瀕死の重傷を負いながら事故拡大防止のため機関助士に緊急連絡を指示し息絶えた美談が、1960年に「大いなる旅路」として映画化され、事故が世に広く知られた。撮影では現地付近で実際に本物の蒸気機関車を突き落としたことも、鉄道ファンに知られる。
1943(昭和18)年10月26日(火)18時54分頃、茨城県の鉄道省常磐線土浦駅で貨車が上り線に進入、これに上り貨物列車が衝突し一部の貨車が転覆、これに下り上野発平行旅客列車が衝突し客車4両が脱線、うち1両が桜川に転落した。
駅員の打合せ不足で、貨車を駅構内で移動する際に、駅員が分岐器を誤った方向に切り替えたため。さらに異常時に列車防護の手続きを行わなかったため。
1962年5月3日に同じ常磐線で発生した三河島事故と同じような事故として振り返られる。
1941(昭和16)年9月16日(火)18時12分、兵庫県の鉄道省山陽本線網干駅で、停車中の上り旅客列車(C57形式蒸気機関車+客車9両)に、後続の下関発東京行第8急行列車(C53形式蒸気機関車+客車13両)が追突、旅客列車の後部4両と急行列車の前部3両が脱線し転覆した。
急行列車が停止信号を無視したため。
鉄道省ではいわゆる黄信号、注意信号について、自動車のように注意するのではなく、時速45kmなどの制限速度を設けた。また、自動列車停止装置(ATS)の開発と整備を始めた。
1940(昭和15)年3月5日(火)8時45分頃、山形県の鉄道省米坂線小国・玉川口間で、荒川橋梁が雪崩で崩壊、直後に米沢発坂町行混合列車(8620形式蒸気機関車+貨車2両+客車4両)が突っ込み、荒川に転落した。
列車の進入直前に鉄橋が崩落したため。
現地が3月23日6時頃まで不通。不運な自然災害として、米坂線と鉄道の歴史に刻まれる。事故の規模の割には、今に紹介されることが多い。
1940(昭和15)年1月29日(月)6時56分頃、大阪府の鉄道省西成線安治川口駅で、下り列車(キハ42000形式3両編成)が脱線し横転、燃料のガソリンに引火して火災が発生し、多くの乗客が窒息死した。
列車が通過中に分岐器が操作され、車両の前後の台車が異なる線路にまたがった、車両が股裂きに遭ったため。駅員が列車の遅延に焦り、分岐器を早めに操作した。通常は列車の通過中に操作できない分岐器が、部品の撤去で操作できるようになっていた。燃えやすい燃料と、軍需工場の通勤輸送で超満員の列車で、被害が拡大した。
西成線は戦時下でも緊急に、1941年5月に電化され、分岐器の部品を復旧した。第二次大戦後に燃料事情が改善されても、日本国有鉄道(国鉄)でガソリンカーが導入されることはなかった。犠牲者数で2020年時点でも国内最悪の鉄道事故として鉄道史に刻まれる。西成線は1961年4月から桜島線、2001年3月から愛称「JRゆめ咲線」。