抹香鯨の鉄道事故年表 1960年〜1969年の鉄道事故

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1968年8月17日 相鉄瀬谷駅列車衝突事故(負傷者83名)

〜 相鉄の歴史に刻まれる事故 〜

概要

1968(昭和43)年8月17日(土)11時45分、神奈川県の相模鉄道(相鉄)瀬谷駅で、電気機関車に横浜発海老名行列車(電車4両編成)が衝突した。

原因

電車の運転士の居眠りによる停止信号の見落とし。瀬谷駅構内で貨車を入れ替えていた機関車に衝突した。

影響

相鉄では自動列車停止装置(ATS)を導入。自社の重大事故として、教習所にパネルを掲出しジオラマを展示し、社員教育に使用する。相鉄ファンにはよく知られる。

1968年7月16日 中央線御茶ノ水駅電車追突事故(負傷者210名)

〜 御茶ノ水駅での衝突事故のひとつ 〜

概要

1968(昭和43)年7月16日(火)22時38分、東京都の日本国有鉄道(国鉄)中央本線御茶ノ水駅で、停車中の東京発豊田行列車(101系電車10両編成)に、後続の東京発高尾行列車(101系電車10両編成)が追突した。

原因

後続列車の運転士の運転ミスによるもの。現場は急曲線かつ急勾配で、停車列車の確認が遅れブレーキが間に合わなかった。

影響

線形の悪い難所での事故として、御茶ノ水駅を紹介する際によく引用される。

1968年1月27日 日比谷線回送列車火災事故(負傷者11名)

〜 地下鉄で有名な列車火災事故 〜

概要

1968(昭和43)年1月27日(土)12時40分、東京都の帝都高速度交通営団日比谷線六本木・神谷町間のトンネル内で、北千住方面行回送電車(東武2000系電車6両編成)の3両目の床下から出火、1両を全焼し2両が半焼した。乗務員や消防士が負傷。

原因

電車の抵抗器が過熱したため。電車の不調により手前の六本木駅で運転を打ち切り乗客を降ろし回送列車にしたため、乗客の被害がなかった。

影響

運輸省は1969年5月15日に「電車の火災事故対策について」を通達、地下線を運転する車両の不燃化対策である「A−A基準」を強化した。地下鉄の事故や火災やその特集が組まれる度に、この事故が引用される。

1967年8月8日 新宿駅貨物列車炎上事故(負傷者なし)

〜 大都会の大炎上が映像や写真に多く残る 〜

概要

1967(昭和42)年8月8日(火)1時45分頃、東京都の日本国有鉄道(国鉄)新宿駅で、浜川崎発立川行貨物列車(EF10形式電気機関車+貨車18両)の側面に、氷川発浜川崎行貨物列車(EF10形式電気機関車+貨車20両)が衝突、立川行貨物列車のジェット燃料タンク車4両が脱線し、激しく炎上した。

原因

浜川崎行貨物列車の機関士のブレーキ操作遅れによるもの。自動列車停止装置(ATS)の警報音を確認操作で止め、しかし列車を所定の位置に停止させなかった。また、ジェット燃料がアメリカ軍のものであり、燃料の抜き取りが日本側ではできず、復旧が遅れた。

影響

大都会での激しい列車火災は多くの映像や写真に記録された。中央線は丸一日運休。国鉄は自動列車停止装置(ATS)に確認扱い後の注意喚起の機能を追加、具体的には確認ボタンを押してベル音を消しても列車停止までキンコン音が鳴り続けるようにした。東京の昭和史に刻まれる。鉄道ファンはあまり振り返らないと思う。

1966年4月25日 東海道新幹線車軸折れ事故(負傷者なし)

〜 被害がなくても新幹線の重大事故のひとつ 〜

概要

1966(昭和41)年4月25日(月)19時頃、愛知県の日本国有鉄道(国鉄)東海道新幹線豊橋・名古屋間で、新大阪発東京行列車「ひかり42号」(0系新幹線電車12両編成)が走行中に最後尾の車両が異常に振動し、豊橋駅付近で停止した。

原因

車軸が折れたため。工場での製造中の停電により不良箇所が発生したと見られる。

影響

品質管理の徹底が図られた。また、新幹線の重大事故のひとつとして記録される。

1965年4月24日 北陸鉄道金沢市内線暴走事故(死者1名・負傷者24名)

〜 金沢から路面電車を消した事故 〜

概要

1965(昭和40)年4月24日(土)15時45分頃、石川県の北陸鉄道金沢市内線出羽町停留場で、小立野発野町駅前行列車(モハ300形1両編成)が暴走、兼六園下停留場で脱線し横転した。

原因

電車の故障。ブレーキロッドが折れたため電車のブレーキが利かず、下り坂を暴走した。

影響

当時全国の都市で流行していた、自動車交通に邪魔な路面電車の廃止運動が、金沢では危ない電車でより盛り上がり、北陸鉄道は赤字の金沢市内線の全線を1967年2月10日までに廃止した。海外でのLRT(新型路面電車)の普及を受け、平成時代に日本国内でも路面電車の新設を検討する都市が見られ、東隣の富山県内では実際に改良や延伸が行われる中、金沢市ではそんな声や動きが見られないのは、この事故が影響していると考えられる。

1964年4月24日 特急富士号踏切事故(負傷者10〜11名)

〜 こだまに「かえだま」が走る 〜

概要

1964(昭和39)年4月24日(金)10時7分頃、静岡県の日本国有鉄道(国鉄)東海道本線草薙・静岡間の踏切で、東京発宇野行特別急行列車「第1富士」(151系電車12両編成)とダンプカーが衝突し、6両が脱線した。ダンプカーの運転手は死亡。

原因

ダンプカーが、特急が来る直前に踏切内へ入ったため。

影響

電車の先頭車1両が廃車。特急電車が足りなくなり、東京・大阪間特急「こだま」が急行列車向けの153系電車や準急列車向けの157系電車で運転され「かえだま」と揶揄されたり、事故当日の宇野発大阪行特急「うずしお」が普通列車向けの80系電車で運転された。鉄道ファン視点での国鉄特急史に深く刻まれる。

1964年3月29日 名鉄名古屋駅電車追突事故(負傷者143〜149名)

〜 あんなに忙しい駅なのに珍しい追突事故 〜

概要

1964年3月29日(日)9時55分、愛知県名古屋市の名古屋鉄道(名鉄)名古屋本線新名古屋駅で、停車中の大野町発新木曾川行急行列車(電車4両編成)に後続の豊橋発新鵜沼行特急列車(電車4両編成)が追突した。

原因

特急列車の運転士が見込み運転で停止信号を通過したため。

影響

名鉄が自動列車停止装置(ATS)の採用を決定した。昔も今も新名古屋駅には名鉄各線の電車が集まるが、拡張が不可能な地下駅であるため、わずか3面2線の設備で神業的に列車をさばいている。新名古屋駅は2005年1月から名鉄名古屋駅。

1963年11月9日 「鶴見事故」(死者161〜162名・負傷者120名)

〜 日本の社会史と鉄道史に刻まれる大事故 〜

概要

1963(昭和38)年11月9日21時40分頃、神奈川県の日本国有鉄道(国鉄)東海道本線鶴見・新子安間で、下り貨物線の佐原発野洲行貨物列車(EF15形式電気機関車+貨車45両)の43〜45両目の貨車3両が脱線して上り旅客線を支障、直後に上り旅客線の久里浜発東京行列車(70系電車12両編成)が貨車に衝突して電車3両が脱線、異常を感知し下り旅客線で停止した東京発逗子行列車(70系電車12両編成)の4両目と5両目に衝突した。

原因

貨車が脱線したため。貨車が脱線した原因は分からなかったが、国鉄の研究や実験で、車両の構造や積み荷の状況、線路の状態、列車の速度や加減速など様々な条件が絡んだ「競合脱線」とされた。この事故が起きる前から、2軸貨車、ひとつの車体にふたつの車軸を持つ貨車による、原因不明の脱線は起きていた。

影響

国鉄は北海道に狩勝実験線を設けるなど競合脱線の研究と実験を約10年続け、2軸貨車の構造の改良、車輪の踏面形状の改良、車両の台車の改良、線路への脱線防止ガードの設置などの対策を20年以上続けた。1984年2月の鉄道貨物のヤード集結型輸送の廃止で、2軸貨車そのものがほぼ消えた。歴史的な大事故として日本の社会史と鉄道史に刻まれる。

1962年5月3日 「三河島事故」(死者160名・負傷者296名)

〜 日本の社会史と鉄道史に刻まれる大事故 〜

概要

1962(昭和37)年5月3日(木)21時37分、東京都の日本国有鉄道(国鉄)常磐線三河島駅で、田端操車場発水戸行貨物列車(D51形式蒸気機関車+貨車45両)が安全側線に進入し機関車と貨車1両が脱線し下り線を支障、直後に上野発取手行列車(電車6両編成)が接触し先頭2両が脱線し上り線を支障、約6分後に取手発上野行列車(電車9両編成)が接触し先頭4両が脱線大破し2両が転落した。

原因

貨物列車の運転士が停止信号を見落としたため。さらに、脱線した貨物列車の乗務員も取手行列車の乗務員も、他の列車が現場に来ることを防ぐ列車防護の措置を行わなかったため。取手行列車の乗客は、電車のドアコックを操作して乗降扉を手で開けて、線路上に降りて三河島駅のホームに向けて歩いたところ、上野行列車に次々とはねられた。

影響

国鉄は全国全線全列車への自動列車停止装置(ATS)の取付を決定、1966年4月までに全線区で整備された。各車への信号炎管や防護装置の設置や安全側線の改良も推進された。また、1963年6月に鉄道労働科学研究所が設置され、人間工学面での事故防止研究が本格的に開始された。歴史に残る惨事として、社会史と鉄道史に刻まれる。

1961年12月29日 山陽本線列車追突事故(負傷者50名)

〜 列車運行確保の最終手段「隔時法」を廃止 〜

概要

1961(昭和36)年12月29日(金)12時頃、山口県の日本国有鉄道(国鉄)山陽本線小野田・西宇部間で、停止中の東京発長崎行特別急行列車「さくら」(C62形式蒸気機関車+20系客車14両編成)に、後続の山口発博多行準急行列車「あきよし」(キハ55系気動車5両編成)が追突した。客車1両と気動車1両が脱線。

原因

雪害による信号故障で隔時法により運行したため。隔時法とは、信号の故障時に一定間隔で、5分または10分程度の間隔を置いて、列車を出す運行方法。列車の運行中の安全は目視のみに頼るため、運行確保の最終手段として用いられてきた。

影響

国鉄は隔時法を廃止した。事故で「さくら」向け20系寝台特急向け客車が不足し、編成の一部を10系客車などの古い車両で代用した。

1961年10月26日 大分交通別大線列車埋没事故(死者31名・負傷者34〜38名)

〜 別府と大分を結ぶ路面電車を廃止に追い込んだかもしれない事故 〜

概要

1961(昭和36)年10月26日(木)14時52分頃、大分県の大分交通別大線仏崎信号場・田ノ浦間で、大分駅前発亀川駅前行列車(200型電車1両編成)が土砂に埋没した。

原因

台風26号による集中豪雨での土砂崩れのため。

影響

経営の悪化に事故の発生と大分県の要請で、大分交通は別大線を1972年4月に全廃した。

1961年8月29日 羽越線列車転落事故(死者2名・負傷者12名)

〜 踏切事故で列車が鉄橋を破壊 〜

概要

1961(昭和36)年8月29日(火)20時55分、新潟県の日本国有鉄道(国鉄)羽越本線新津・京ヶ瀬間で、下り列車(C57形式蒸気機関車+客車5両)が踏切でトレーラーと衝突、阿賀野川橋梁のトラス橋を破壊し、機関車と客車2両が橋桁ごと川に転落した。機関車の乗務員2名が死亡。

原因

トレーラーが踏切に進入したため。

影響

該当箇所は9月19日まで不通。鉄橋を破壊するほどの被害を出した踏切事故として羽越線史に刻まれる。

1961年2月9日 急行日本海脱線事故(負傷者1名)

〜 SLやまぐち号の蒸気機関車は事故で大破していた 〜

概要

1961(昭和36)年2月9日(木)13時45分頃、新潟県の日本国有鉄道(国鉄)羽越本線村上・間島間で、急行列車「日本海」(C57形式蒸気機関車+客車)が土砂に乗り上げ、機関車と客車2両が脱線した。

原因

土砂崩れによるもの。

影響

大破した蒸気機関車は国鉄長野工場で半年以上かけて復旧された。これが今もJR西日本の山口線で「SLやまぐち号」を引く、C57形式蒸気機関車1号機である。

1961年1月17日 小田急線電車転落事故(負傷者21名)

〜 映像と写真と小田急ファンの記憶に残る列車橋梁転落事故 〜

概要

1961(昭和36)年1月17日(火)17時25分、東京都の小田急電鉄小田原線和泉多摩川・登戸間の踏切で、新宿発向ヶ丘遊園行列車(2400形電車4両編成)とダンプカーが衝突、先頭車1両が多摩川橋梁から河川敷に転落し、もう1両が斜めに傾いた。ダンプカーの運転手は死亡。

原因

ダンプカーが踏切に進入したため。

影響

電車が橋から落ちている映像や写真が多く残される。小田急ファンの記憶に残る。

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最終更新 2008年9月6日
管理者 まっこうくじら
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