1956(昭和31)年10月15日(月)18時22分、三重県の日本国有鉄道(国鉄)参宮線六軒駅で、名古屋発鳥羽行快速列車(C51形式蒸気機関車+客車9両)が安全側線に進入し脱線、直後に鳥羽発名古屋行快速列車(C57形式蒸気機関車+C51形式蒸気機関車+客車11両)が衝突した。
鳥羽行列車の運転ミス。鳥羽行列車の遅れで、運転指令により名古屋行列車とすれ違う駅が松阪から六軒に変更された。しかし鳥羽行列車の乗務員は六軒駅を普段どおり通過しようとして、停止信号に気が付いて非常ブレーキをかけたが間に合わず、安全側線で脱線し本線を支障した。直後に名古屋行列車が進入し衝突した。
犠牲者の多くが東京教育大学付属坂戸高等学校の修学旅行生であったため、社会的影響が大きかった。国鉄は先方の停止信号を音で運転士に知らせる車内警報装置の採用を決定、地方路線を主にテコによる手動操作式が多かった信号機の自動化や色灯化が促進された。現地の参宮線は1959年7月から紀勢本線。
1956(昭和31)年7月3日(火)7時14分、北海道の日本国有鉄道(国鉄)士幌線士幌・上士幌間で、帯広発十勝三股行列車(気動車1両編成)が貨車と正面衝突した。
上士幌駅員の作業ミス。駅で貨車を移動し列車を編成する入替作業で、貨車に勢いを付けて自走させる、突き放して転がす「突放」(とっぽう)を行い、誤って本線に貨車を出してしまい、下り勾配を逸走させた。突放は当時各地の駅で実施されていたが、上士幌駅では勾配のため禁止されていた。
士幌線の歴史に刻まれる。また、ブレーキの確実化や車止めの設置など、突放作業の安全対策が強化された。士幌線では1951年9月20日の幌加駅と1969年11月28日の士幌駅でも同じような事故が起きた。士幌線は1987(昭和62)年3月に廃止。
1956(昭和31)年5月7日(月)14時10分頃、和歌山県の南海電気鉄道高野線紀伊細川・紀伊神谷間の18号トンネルで、極楽橋発難波行急行列車(電車3両編成)の床下から出火、すべての車両が全焼した。
電車の抵抗器が過熱したため。車体に木材が多く使われ、燃焼を促進した。
運輸省は電車の不燃化を検討し、同年6月と翌1957年1月に材料の防火性能を通達、(1957年の御堂筋線火災も受けて、)1957年12月には地下線を運転する車両の火災対策を強化、いわゆる「A−A様式」を導入した。消防、防火、防災の分野でよく振り返られるが、南海史や鉄道史で振り返られることはほとんどない。
1955(昭和30)年5月11日(水)6時56分、香川県の高松港沖合約2kmの瀬戸内海女木島沖で、日本国有鉄道(国鉄)宇高連絡船高松発宇野行旅客便(紫雲丸)と、宇野発高松行貨物便(第三宇高丸)が衝突、紫雲丸が沈没した。
濃霧による視界不良。レーダー装置を両船の船長が使いこなせなかった、紫雲丸が法律に反して進路左側に航路を取ったことなども指摘される。衝突直後の全船停電とわずか5分での沈没が被害を拡大した。
犠牲者数で当時世界第3位の海難事故、前年の1954年9月26日の青函連絡船洞爺丸に続く国鉄連絡船の沈没と、犠牲者のうち100名が修学旅行の小中学生であったことで、世間の非難を浴びた。5月19日に長崎国鉄総裁が辞任。瀬戸大橋の実現を後押しした。
1955(昭和30)年1月20日(木)21時5分、長野県の飯田線田本・門島間で、豊橋発飯田行列車(電車2両編成)が落石に衝突、脱線しの大表沢鉄橋から明島川に転落し大破した。
電車が落石に乗り上げたため。
被害の大きい落石事故として飯田線史に刻まれる。
1954(昭和29)年9月26日(日)22時43分、日本国有鉄道(国鉄)青函連絡船函館発青森行貨客便(洞爺丸)が、函館港沖で座礁、横転、沈没した。
台風15号による荒天のため。18時に函館を出港したが、荒天で航行を断念、函館湾内で投錨し天候回復を待っていた。出港の理由は一時的な天候回復を台風通過と誤認した、荒天で休航が長期化する中で移動中の国鉄幹部の出港要請に屈した、など諸説がある。他に貨物船4隻もこの台風で沈没。
台風は後に洞爺丸台風と命名。当時犠牲者数で1912年4月14日のタイタニック号に次ぐ世界第二位の海難事故といわれた。青函トンネルの実現を後押しした。海難と国鉄と青函の歴史に深く刻まれる。
1951(昭和26)年4月24日(火)13時45分頃、神奈川県横浜市の日本国有鉄道(国鉄)東海道本線(京浜線)横浜・桜木町間で、赤羽発桜木町行列車(63系電車5両編成)の先頭車から出火、先頭車1両が全焼し、隣の1両にも延焼した。
架線工事ミス。垂れ下がった架線が車体に触れて、電気がショートし発火した。変電所の劣化で電気が止まらない、戦時に製造の電車は燃えやすい、材料の節約で側窓を3分割し中段を固定したことから乗客が車両の外へ逃げられない、乗降扉を手動にするドアコックの存在が乗客に知らされず使えない、隣の車両に逃げようにも貫通扉が内開きで乗客の圧力により開かない、まもなく終着駅で先頭車が最も出口に近く乗客が多かった、などの不備や不運が重なった。
国鉄は緊急に、同種の電車のドアコックの乗降扉脇への移設と明示、貫通扉の引戸化、車両の絶縁強化と、変電所への安全装置の設置を実施した。続いて電車の三段窓の中段の可動化や二段窓化と、車両の難燃化を約2年で完了した。加賀山国鉄総裁は8月24日に引責辞任。国鉄電車史に刻まれる事故で、社会史にも刻まれた大事故であるはずが、近年はあまり振り返られなくなったと思う。