1999(平成11)年6月27日(日)9時25分頃、福岡県の西日本旅客鉄道山陽新幹線小倉・博多間の福岡トンネル内で、トンネルの壁のコンクリート約220kgがはく落、新大阪発博多行列車「ひかり351号」(0系新幹線電車12両編成)の9号車の屋根を直撃した。
コールドジョイントと言われる施工不良個所の存在により、コンクリートの一体性が損なわれたもの。山陽新幹線の突貫工事が遠因とされる。
JR西日本はトンネルの施工業者に損害賠償を要求した。JR西日本は約1か月かけて緊急に山陽新幹線全142トンネルの点検補修を実施したが、10月9日には小倉・博多間の北九州トンネルで約226キロのコンクリートが落ちるなど、山陽新幹線を含む各地の高架橋やトンネルで同種の事故が次々に発生、その最初の大きな事故として歴史に刻まれることとなった。コンクリート構造物の老朽化問題が社会問題として認識され、補修技術の進化や専門資格の創設などの契機となった事故。
1999(平成11)年2月21日(日)0時15分頃、東京都の東日本旅客鉄道(JR東日本)の通称「山手貨物線」目黒・五反田間で、線路上の保守作業員が品川発小淵沢行臨時回送列車(EF64形式電気機関車+14系客車「江戸」6両)にはねられた。
工事業者の工事指揮者が当日の列車ダイヤを確認しておらず、列車が来る線路に作業員が入ってしまった。
JR東日本は線路閉鎖のない線路内作業を全面的に禁止した。工事指揮者は禁固2年6月の実刑判決。
現地時間1998年6月3日(水)10時59分、ドイツ・ニーダーザクセン州エシュデ村で、ミュンヘン発ハンブルク行ICE884列車「ヴィルヘルム・コンラート・レントゲン号」(ICE1系14両編成(機関車+客車12両+機関車・乗員6名乗客287名)の1号車(先頭から2両目)が脱線し、3号車が線路をまたぐ道路橋の橋脚に時速約200キロで激突、後続車両が次々に衝突し大破した。道路橋が崩壊し、乗客に加え橋上の作業員2名も死亡。
防振と防音を目的に車軸と車輪の間にゴムを挟んだ構造の車輪(弾性車輪)が破損したため。その状態で約2分6km走行した後、分岐器で進行方向右側へ押し出された車両が橋脚に衝突した。
ドイツ鉄道は同形式すべての車両の運行を一時停止し、車輪を通常の一体型に交換した。その間、車両不足によりドイツ版新幹線ICEの運行が混乱した。車両は先頭の機関車を除く全車が廃車。世界初の高速旅客鉄道の重大事故として歴史に刻まれる。
1998(平成10)年1月20日(火)14時53分頃、東京都の東京臨海新交通臨海線(ゆりかもめ)お台場海浜公園駅付近で、電気設備の点検中の作業員が列車にはねられ死亡した。
何らかの要因で接近する列車に気が付かず接触したものと思われる。
非常に珍しい、全駅ホームドア装備の新交通システムでの人身事故として語られる。
1998(平成10)年1月8日(木)夜から翌日未明にかけて、東日本旅客鉄道(JR東日本)の東海道本線が不通となり、駅間で大勢の乗客が最大約6時間、列車の中に閉じ込められた。
直接には8日午後から首都圏を襲った大雪のため。JR東日本の運行管理の不手際により、駅のホームが列車で埋まり、多くの列車を駅間の線路で動けなくした。JR東日本以外の鉄道でも雪害により列車の運休が相次いだが、列車への乗客の閉じ込めは起こらなかった模様。
JR東日本では以後、首都圏で大雪が予想された際には、あらかじめ列車の本数を間引くことで、駅間に電車を止めないようにした。
1997(平成9)年11月16日(日)13時13分頃、埼玉県の東日本旅客鉄道上越新幹線大宮・熊谷間で、越後湯沢発東京行「Maxたにがわ440号」が停電で約2時間半停車。その運行再開後に東北・山形・秋田・上越・長野の各新幹線で運行障害が発生、列車の運休や最大約8時間半の遅れが出た。翌日も100本以上の列車が運休。
新幹線の運行管理システム「COSMOS」のトラブルによるもの。集中管理で操作するポイントや信号が切り替わらず、列車が動けなかった。
おそらくシステムの見直しがなされたものと思っていたが、2005年8月16〜17日の東北新幹線、2008年12月29日の東北・山形・秋田・上越・長野新幹線、2011年1月17日の東北・山形・秋田・上越・長野新幹線でも同じようなトラブルが発生しているため、対策は十分でないか行われなかった模様。
※2005年8月17日補訂:影響文の手直し1997(平成9)年10月12日(日)20時2分頃、山梨県の東日本旅客鉄道(JR東日本)中央本線大月駅で、下り本線を通過中の新宿発松本行特急列車「スーパーあずさ13号」(E351系電車12両編成)の側面に、回送列車(201系電車6両編成)が突っ込んだ。回送列車の先頭2両と特急電車の中間5両が脱線、うち1両は横転。
回送列車の運転士が大月駅構内で車両を移動する際、下り列車向けの青信号と回送列車向けの赤信号を見間違い、特急列車の通過中に同じ線路へ進入してしまった。回送列車のATS(自動列車停止装置)のスイッチがオフになっていたが、運転士が無意識で、あるいは意識的に操作したか、駅構内での移動はATSを切ってもよい、あるいは切ることになっていた、など資料により内容が異なる。
四方津・甲斐大和間が10月14日7時頃まで1日半不通。事故で「スーパーあずさ」用の電車が足りなくなり、翌年7月まで一部列車を旧型電車で代替運転し所要時間が増大した。特急電車5両は車体新造。JR東日本は乗務員の訓練を目的に一台3億円の新型シミュレータを開発し全支社に配備。運転台のATSスイッチにカバーをかけた。
1997(平成9)年8月12日(火)23時18分頃、静岡県の東海旅客鉄道(JR東海)東海道本線沼津・片浜間で、停止中の下り貨物列車(EF65形式電気機関車+コキ100系貨車17両)に後続の三島発静岡行列車(113系電車4両編成、乗客約300名)が追突した。
電車の運転士の規程違反。貨物列車が踏切支障報知装置の作動による特殊信号発光機の点灯で停止していたところ、赤信号を無視した電車に追突された。列車は赤信号でも「無閉塞運転」の規定により、1分間停止後に時速15km以下での徐行運転ができるが、貨物列車運転士の踏切支障報知装置の解除により青信号となった前方の信号を誤認し、時速76kmまで加速してしまった。
沼津・東田子の浦間が翌13日12時頃まで不通。JR東海は無閉塞運転の取扱を廃止した。電車の運転士に禁固2年執行猶予4年の有罪判決。
1997(平成9)年5月6日(火)2時5分頃、岡山県の西日本旅客鉄道山陽新幹線岡山新幹線運転所で、入換作業中の車両(0系新幹線電車12両編成)が車止めに衝突しこれを破壊、市道にはみだし約40メートル先で停止した。
運転士の居眠り運転とされる。運転士の長時間勤務や、車止めの位置など運転所構内の施設配置に問題があったとの指摘もある。
2020年現在で、山陽新幹線の新大阪・博多間で唯一の列車脱線事故とされる。
フランス時間1996年11月18日(月)21時47分、イギリス・フランス国境の英仏海峡トンネルのドーバー海峡下で、走行中のカートレイン列車(機関車+客車+貨車29両+機関車の32両編成・乗員2名乗客31名)で列車火災が発生、機関車と貨車10両を焼いた。トラック運転手などの乗客は避難し犠牲者なし。
貨車に乗っていた冷凍トラックの電気火災。
トンネルの設備が焼け、火災の高熱によりコンクリートが痛んだため、復旧に約6か月を要した。その間は単線で運転。日本国内でもドキュメンタリー番組が時々再放送される。
1996(平成8)年6月26日(水)21時20分頃、岐阜県の東海旅客鉄道高山本線焼石・下呂間で、名古屋発高山行特急列車「(ワイドビュー)ひだ15号」(85系気動車5両編成、乗客約150名)が落石に衝突、先頭から2両が脱線した。
大雨による落石が線路上にあったため。列車の速度が低かったことと、飛騨川への転落を免れたため、被害は大きくならなかった。
被害が大きい近年の落石事故として、同種の事故が起きる度に新聞などで紹介される。先頭車1両が廃車。同じような事故は昔から各地で起きているが、現実的でない大規模な投資以外に根本的な解決策がないため、引き続き落石の防止や早期の発見についての投資や研究が進められている。
1995(平成7)年12月27日(水)18時30分頃、静岡県の東海旅客鉄道(JR東海)東海道新幹線三島駅で、東京発名古屋行列車「こだま475号」(0系新幹線電車16両編成)の6号車の乗降扉に指を挟まれた高校生が、列車に引きずられてホーム下に転落し死亡した。
旅客が乗降扉に指を挟んだ状態で列車が出発したため。旅客が乗降扉に指を挟まれたことを、列車の車掌もホームの係員も気付かず、扉のすき間が小さかったため運転士も戸閉ランプで確認できなかった。新幹線電車は車内の気密を保つため、乗降扉を閉めた後に車体へ押し付ける構造を持ち、これで指が抜けにくかったのではないかと想像される。
JR東海は三島駅でホームの照明を増設、乗降扉を車体へ押し付ける力とタイミングを調整した。それまで鉄道側の責による新幹線の利用者の死亡事故は皆無であったが、この事故以降は「列車内の乗客の死亡事故は皆無」「運転死亡事故は皆無」のような表現としている。
1995(平成7)年3月20日(月)8時過ぎ、東京都の帝都高速度交通営団(営団)の、日比谷線北千住発中目黒行列車(営団03系電車8両編成)、日比谷線中目黒発東武動物公園行列車(東武鉄道20000系電車8両編成)、丸ノ内線池袋発荻窪行列車(営団02系電車6両編成)、丸ノ内線荻窪発池袋行列車(営団02系電車6両編成)、千代田線我孫子発代々木上原行列車(JR東日本203系電車10両編成)の各車内で、数千名の毒ガス「サリン」被害者が発生した。
カルト宗教団体による化学兵器を用いた組織犯罪。国の省庁の始業時間に合わせて、その中心駅である霞が関駅に到着する電車に信者が分乗、車内で毒ガスを拡散した。
同団体のその他の犯罪も含め代表や幹部14名に逮捕状、刑事裁判で死刑を含む有罪判決。被害者や遺族42名の民事訴訟でも損害賠償の和解成立。史上初の毒ガスを使った無差別殺人に世界の治安当局が震撼した。地下鉄駅からごみ箱が消え、警察や救急に毒ガス被害に対処する態勢が整備された。
1994(平成6)年12月18日(日)11時頃、島根県の一畑電気鉄道北松江線松江温泉駅付近で、松江温泉発電鉄出雲市行列車(電車4両編成・乗員2名乗客14名)の運転士が列車から転落し軽傷を負った。列車は約300m進み、車掌の非常ブレーキで停止した。
電車が揺れたため。運転士は電車が加速しないため、窓から身を乗り出してパンタグラフを確認していた。線路の老朽化で電車の揺れが大きかったのかもしれない。
珍事としてたまに振り返られる。
1994(平成6)年2月22日(火)17時45分頃、北海道の北海道旅客鉄道石勝線トマム・新得間の広内信号所付近で、釧路発札幌行特急列車「おおぞら10号」(183系気動車7両編成・乗員2名乗客341名)の前3両が脱線し、先頭車が転覆した。
悪天候に伴う強風によるもの。現場付近の風速計の故障を半年間放置し、状況が把握できない中で徐行運転を実施したからという指摘がある。
現場付近の線路で風上側に防風柵を設置した。風速計の管理も見直し。
1994(平成6)年2月22日(火)15時20分頃、岩手県の三陸鉄道南リアス線甫嶺(ほれい)・三陸間で、盛発久慈行列車(36型気動車2両編成・乗員2名乗客5名)が脱線転覆し、築堤から水田に転落した。
悪天候に伴う強風によるもの。
三陸鉄道は全線で風速計、雨量計、防風壁、列車無線を整備した。車両2両は廃車。
1993(平成5)年10月5日(火)17時30分頃、大阪府の大阪市交通局南港ポートタウン線(ニュートラム)住之江公園駅で、中ふ頭発住之江公園行列車(4両編成、乗客約250人)が車止めに衝突した。
自動運行システムの誤作動が原因と思われる。同線は新交通システムの路線で集中制御の無人運転を実施していた。故障時には列車の運行が止まるはずが、何らかの理由で運行を止められなかった模様。
ニュートラムは11月18日まで全線で運休しバス代行輸送を実施、11月19日に有人運転で運行再開、2000年2月から無人運転を再開した。他の無人運転の新交通システムでも一時的に運転士や添乗員を付けた。
1993(平成5)年8月6日(金)19時20分頃、鹿児島県の九州旅客鉄道日豊本線竜ヶ水駅で、停車中の国分発指宿行列車(キハ200系気動車2両編成)と上り列車(キハ40系気動車2両編成)を、土石流が押し潰した。乗員乗客約330名は列車の乗務員による避難誘導により、全員が並行する国道方面に避難しており無事。なお、その後に国道を襲った土砂災害による死傷者は出ている。
集中豪雨によるもの。鹿児島はこの年の6月から9月にかけて記録的な長雨と豪雨に見舞われ、各地で土砂災害が頻発していた。8月6日の豪雨は、鹿児島市内が一部水没し、日豊本線や国道10号線を数十箇所で寸断する大規模なものであった。
JRの乗務員の的確な判断が乗客の命を救ったとして、その美談が何度も何年もテレビで紹介され続ける。JR九州は豪雨時の列車運転規制に「実効雨量」「3時間雨量」の考えを取り入れた。日豊本線は9月18日まで不通。キハ200系1両以外の気動車3両が廃車。
1993(平成5)年8月6日(金)4時50分頃、静岡県浜松市のJR東海東海道新幹線掛川・浜松間の上り線で、停止中の保守用車両(レール削正車1両)に、他の保守用車両(バラスト散布車、動力車2両+運搬車6両)が衝突した。レール削正車と動力車と運搬車の各1両が脱線、係員11名が軽傷。
バラスト散布車の係員の居眠り運転とされる。加えて列車の追突を防止する装置が切られていたとされる。
東海道新幹線の静岡・豊橋間が当日夕方まで運休、列車145本の運休で約32万人に影響。選手が移動できず、ナゴヤ球場でのプロ野球中日・巨人戦が中止された。JR東海では保守用車の運転を社員から協力会社へ一本化、保守用車の衝突防止のシステムを刷新した。
1992(平成4)年11月3日(火)19時30分頃、長崎県の島原鉄道吾妻・阿母崎間で、諫早発加津佐行列車(2000形気動車1両編成)と加津佐発諫早行列車(2000形気動車1両編成)が正面衝突した。
単線区間で、諫早行列車の運転士が加津佐行列車との行き違い駅を間違えて、信号を見落としたもの。
島原鉄道は自動列車停止装置(ATS)を整備し1993年12月27日に供用開始。1993年3月のダイヤ改正で列車の交換駅をできるだけ統一した。なお、1991年の普賢岳噴火災害とこの事故は、島原鉄道への自治体の出資による第3セクター鉄道化を後押ししたと思われる。
1992(平成4)年9月14日(月)、千葉県の東日本旅客鉄道成田線久住・滑川間の大菅踏切で、千葉発佐原行列車(113系電車4両編成)とダンプカーが衝突。電車の運転手1名が死亡。
最大積載量の4倍もの山砂を積んだダンプカーが、踏切に向かう緩い下り坂でブレーキが効かず、踏切待ちの車の脇から徐々に踏切内へ進入したもの。
JR東日本では事故列車と同型の全車両に前面強化の工事を実施、以後に製作した新型車両には運転席後方に壊れやすい部分をつくり運転手が運転台に閉じこめられないような構造とした。ダンプカーの運転手は刑事裁判で禁固2年の実刑を受け、その運転手と荷主と砕石会社および作業員2名は民事裁判で1億円の賠償命令を受けた。なお、事故現場の踏切は後の道路立体化により廃止された。
1992(平成4)年6月2日8時頃、茨城県の関東鉄道常総線取手駅で、新守谷発取手行列車(気動車4両編成、乗客約900名)が車止めを突き破り駅ビルに衝突した。先頭車中程の乗客1名が死亡。
列車のブレーキ故障。非常ブレーキも一駅手前の西取手駅で作動させた後に十分な復元がなされず、通常・非常の両系統のブレーキが作動せず、終着駅の車止めに衝突して駅ビルに突っ込んだ。
事故前の関東鉄道常総線には、バブル経済による東京通勤圏の拡大に伴う利用者の増大に対して、旧国鉄の中古車であるキハ30系気動車を積極的に導入していたが、事故後は新車の投入に切り替えたと見える。
1991(平成3)年5月14日(火)10時35分頃、滋賀県の信楽高原鐵道貴生川・紫香楽宮跡間で、京都発信楽行臨時快速列車「世界陶芸祭しがらき号」(JR西日本キハ58系気動車3両編成・乗客約600名)と、信楽発貴生川行普通列車(信楽高原鐵道SKR200形気動車4両編成・乗客約50名)が正面衝突した。
貴生川行列車が赤信号で信楽駅を出発したため。その契機となった信号故障について、JR西日本と信楽高原鐵道の言い分が異なるが、JRが信楽高原鐵道に無断で設置した「方向優先てこ」と、信楽高原鐵道がJRや運輸省に知らせずに実施した信号設備改修工事の双方が、設備の不調の原因とされる。超満員の臨時快速に、遅れ気味で速度を上げた普通列車が、山間の急曲線で減速の余裕なく衝突したことで被害が拡大した。
5月26日まで開催予定の「世界陶芸祭セラミックワールドしがらき'91」は事故翌日に臨時休催の後に中止。当年夏に鹿島臨海鉄道大洗駅直通臨時特急を運休とするなど、事故を契機にJRとJR以外の鉄道との乗り入れは縮小された。運輸省は中小鉄道会社の安全設備の整備を促進するための補助金を創設。信楽高原鐵道は陶芸祭と将来のために2億円をかけて整備した列車行き違いのための信号所を閉鎖し、ひとつの列車が貴生川・信楽間を往復する運行に戻した。
1991(平成3)年3月14日(木)14時5分頃、広島県の広島新交通システム工事現場で、架設中の鋼製橋桁1本約60トンが道路に転落し、赤信号で停車中の自動車11台を押し潰した。
施工ミスによるもの。支えの鋼材の使い方が間違っていた。おそらく警察の指導による、道路交通を通しながらの施工が被害を拡大した。
工事で橋桁を架ける際には道路を全面通行止にすることが広まった。施工業者は被害者に約3.1億円を損害賠償。裁判で広島市の賠償責任も認定されたが、控訴審は遺族側が損害賠償の請求放棄で終了した。なお、同路線は「アストラムライン」の愛称で1994年8月20日に開業。
1990(平成2)年11月14日(水)12時22分頃、岩手県の東日本旅客鉄道釜石線土沢駅で、盛岡発釜石行急行列車「陸中3号」(キハ110系気動車3両編成)が約2時間半の立ち往生。
盛岡駅での給油忘れによる燃料切れ。
情けない珍事として鉄道雑学のネタとなる。
1990(平成2)年8月10日(金)8時頃、静岡県の東海旅客鉄道東海道新幹線静岡・掛川間で架線が切れ、ダイヤが混乱した。
台風11号の接近によるもの。
プロ野球中日ドラゴンズの選手が名古屋から東京へ移動できず、天候に関係なく試合ができるはずの東京ドームで巨人戦が中止となった。