上野駅から普通列車を乗り継いで約2時間半。蒸気機関車の車庫があった黒磯駅では、増淵萬四郎などの駅弁販売が第二次大戦で途絶えたが、1959年の鉄道電化で直流電化と交流電化の境界駅になり、機関車を付け替えたり急行列車が止まる駅となり、那須観光の玄関口として皇族も利用する駅となり、2社の駅弁屋が進出し駅弁が大いに売れた。1982年の東北新幹線の開業でその機能は那須塩原駅へ移り、駅弁屋2社も2005年までに撤退した。1886(明治19)年12月1日開業、栃木県那須塩原市本町。
東京駅から東北新幹線で約70分。那須塩原市は2005年1月に黒磯、西那須野、塩原の1市2町の合併でできた、人口約11万人の新しい市で、その名称には新幹線の駅名が採用された。駅弁は黒磯駅の駅弁屋2社が、1982年の東北新幹線の開業とともに進出したが、2005年までにいずれも撤退。2010年代には宇都宮駅の駅弁が、2020年代には山形県の米沢駅の駅弁が、駅のコンビニで売られる。1898(明治31)年11月24日開業、栃木県那須塩原市大原間。
昭和30年代までに黒磯駅で発売された、かつての名物駅弁「九尾すし」の復刻版。2005(平成17)年11月限りですべての黒磯駅弁が失われた後、2012(平成24)年の秋に当時の駅弁屋であるフタバ食品が運営する、東北自動車道下り線の上河内サービスエリアで復活した。2016(平成28)年の秋までに土日曜日に限り、JR宇都宮駅の駅ビル「PASEO」の1階にある店舗「縁(えにし)」で買えるようになり、2020(令和2)年の同店の閉店で2階の土産物店「とちびより」へ移動した。
掛紙の絵柄は昭和時代のものを復刻した。中身は稲荷寿司2個、五目いなり2個、きゅうりの細巻き4個、キュウリと玉子とかんぴょうの太巻き1切れ、サーモン寿司、チーズ寿司、チャーシュー寿司、きゅうり漬、ガリ。
和洋中をミックスした寿司駅弁は、那須を訪れる天皇皇后両陛下のお気に入りだとされた昭和時代のものが復刻されている。書くとかなり奇抜な内容で、食べると何の違和感もなく、半世紀も前にこんな内容の駅弁を出していたことに驚く。時代により太巻きが紅生姜寿司や五目きんちゃくに、サーモン寿司がハム寿司になったりした模様。
※2021年3月補訂:駅での販売再開を追記かつての黒磯駅の名物駅弁「九尾釜めし」の復刻版。2005(平成17)年11月限りですべての黒磯駅弁が失われた後、2012(平成24)年の秋に当時の駅弁屋であるフタバ食品が運営する、東北自動車道下り線の上河内サービスエリアで復活した。2016(平成28)年の秋までに土日曜日に限り、JR宇都宮駅の駅ビル「PASEO」の1階にある店舗「縁(えにし)」で買えるようになり、2020(令和2)年の同店の閉店で2階の土産物店「とちびより」へ移動した。
ふたにあった九尾の狐の絵柄は復刻されなかったが、陶製の釜飯駅弁向け容器を使い、現役時代と同じ絵柄の掛紙をかける。中身は茶飯を鶏肉、たけのこ、ごぼう、しいたけ、錦糸卵、紅生姜、栗で覆い、これは忠実に復刻されている。今回の印象としては、茶飯がたっぷり、具が少なめで、御飯のみを食べ進めたような感じ。
※2021年3月補訂:駅での販売再開を追記1950(昭和25)年の発売か。本体に駅弁の名前を、ふたに九尾のキツネを浮き彫りにした益子焼の釜飯容器に、やはり駅弁の名前と九尾のキツネを描いた掛紙をかけ、紙ひもでしばる。おしぼりと割りばしは別添。中身は茶飯の上に鶏肉、ごぼう、椎茸、うずらの卵、栗2個、錦糸卵、紅生姜、ラッキョウなどを載せる、内容としては普通の釜飯駅弁。2000年に発売50周年を記念して、発売当時の味と雰囲気を再現したそうで、それで「復刻」の名が付く。
食べれば普通の釜飯。しかしふたの向き、ゴムで広がりを押さえた掛紙の見せ方、紙ひものしばり具合、長目の割りばしに大きめのナプキンと、食品表示ラベルの貼り方を除き、釜飯駅弁としての外観の整然さは日本一級かと。そういう周辺部分のしっかりとしたつくりも、また味を出す。
駅弁業者はアイスクリームやマロングラッセで有名なフタバ食品。栃木で創業し鉄道弘済会に冷菓を納入していたことが縁かどうか、1957(昭和32)年に黒磯駅で駅弁の販売を開始した。しかし調製元の弁当事業ごとの駅弁からの撤退により、2005年11月30日限りですべての駅弁が失われた。黒磯の街でひそかに人気を集めていた弁当の工場直売も、併せてなくなったと思われる。
※2006年2月補訂:写真の掲載と解説文の全面改訂経木の栗型容器に割りばしとおしぼりを添えて紙ひもでしばり、駅弁の名前を書いたボール紙の枠にはめる。中身は笹の葉一枚を敷いて茶飯を敷き詰め、その上に鶏肉きじ焼と焼栗に山菜などを載せるもの。栗飯ではなく栗入り鶏飯で、そのすべてに自然な高品質を感じずにいられない秀作。しかし調製元の弁当事業ごとの駅弁からの撤退により、2005年11月30日限りで失われた。
黒磯は鉄道の町。SL時代には機関車の付け替えで、鉄道が電化されても直流電化と交流電化の境界駅として、列車の乗り換えや停車時間が多く取られたほか、皇族も訪れる那須への玄関口として賑わった。しかし東北新幹線を建設する際に、西那須野駅と黒磯駅の急行停車駅同士で醜い停車駅争いを演じた結果、その中間の小さな駅であった東那須野駅に新幹線の駅が設けられ、結果として両駅とも衰退することとなる。
1990年代に発売したと思われる、黒磯駅弁「九尾釜めし」の加熱機能付き容器版。円形の加熱機能付き容器をボール紙のパッケージに収める。中身は九尾釜めしと同じく、茶飯の上に鶏肉、ごぼう、椎茸、うずらの卵、栗、錦糸卵、紅生姜、ラッキョウなどを載せるもの。
飯も具も加熱機能付き駅弁としては多めな感じで、発熱機構の熱量が不足しアツアツにはならなかったが、ホカホカでも良い風味を出すし、具が大きいので見栄えも良い。しかし調製元の弁当事業ごとの駅弁からの撤退により、2005年11月30日限りで失われた。
1978(昭和53)年8月6日10時の調製と思われる、昔の黒磯駅弁の掛紙。下記の掛紙「高原肉めし」に「特製」の名を加え、オイルショックを経て値段が倍になったが、中身は変わりなかったのではないかと思うし、絵柄も変わらない。
1970年代前半、昭和40年代後半の、7月19日7時の調製と思われる、昔の黒磯駅弁の掛紙。那須の山並みと高原が掛紙を彩る。那須高原肉めしは、昭和時代の黒磯駅で、名物駅弁のひとつであった。2017年に宇都宮駅で復刻販売されている。
1976(昭和51)年12月31日20時の調製と思われる、昔の黒磯駅弁の掛紙。この年度に開通するはずの東北新幹線が、オイルショックと建設反対運動で開業の見込みが立たなくなった頃の、大晦日の夜に作られて、上野駅と東北を結ぶ列車が24時間365日発着した黒磯駅で売られたか、黒磯駅前の駅弁売店「フタバ九尾センター」で買われたか。
1975(昭和50)年1月10日の調製と思われる、昔の黒磯駅弁の掛紙。と思ったら、調製ラベルには神奈川県横浜市の、掛紙には東京都台東区と千葉県船橋市の住所が記される。調製元のフタバ食品は冷菓や洋菓子で東日本の各地と名古屋や大阪に支店や営業所を置く食品メーカーであるが、当時は首都圏でも黒磯駅の駅弁と同じ弁当を販売したことがうかがえる。掛紙の絵柄は、黒磯駅の駅弁と同じ。国鉄の旅行キャンペーン「DISCOVER→JAPAN」のロゴマークも入る。
昭和40年代、1970年前後のものと思われる、昔の黒磯駅弁の掛紙。黒磯の電話に市内局番が付いた、1968(昭和43)年頃以降のものか。アユの駅弁、押寿司や姿寿司の駅弁は、第二次大戦前から昭和時代まで、本州や九州の各地で人気だった。
1968(昭和43)年9月28日の調製と思われる、昔の黒磯駅弁の掛紙。絵柄は上記の「黒磯名産あゆ姿すし」と同じ。
昭和40年代、1970年前後の、9月6日10時の調製と思われる、昔の黒磯駅弁の掛紙。中身は助六寿司だと想像する。名物の駅弁ではないと思うが、この絵柄は国鉄分割民営化後の平成時代まで長く使われた。