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 旅の友「駅弁」。実際に食べた9,000個以上の駅弁を中心に、日本全国と世界の駅弁を紹介します。

滋賀県の東海道本線米原駅の駅弁屋である井筒屋が2025(令和7)年1月1日、2月限りで駅弁事業から撤退することを自社の公式サイト(ホームページ)で公表しました。併せて掲載された撤退の理由が、昨今の駅弁について疑問を投げかける内容であったことから、一部の記事やネット上で取り上げられ、話題になっています。

「食文化は娯楽化」「誤った日本食文化の拡散」「食の工業製品化」「手拵えの文化も影を潜め」という、まるで今の駅弁が悪いのだと取られそうな表現は、ひとつの考え方としてあってもおかしくないものの、駅弁の一般や全般に適用される考え方ではないと思います。そこで、駅弁や駅弁屋や今まで、どうやって生まれたり消えたりしてきたのか、考えてみたいと思います。

駅弁や駅弁屋がなくなる場合

駅弁や駅弁屋だからといって、なくなることが常に公表されたり報道されるものではありません。むしろ、事前に分かるほうが珍しく、なくなっても気付かれないものです。一般の商店や商品や会社や事業と変わりません。例えば、国鉄時代に3社か4社の駅弁屋があり、2000年代以降も伯養軒と日本食堂の他に何社も見たと思う、岩手県の盛岡駅の駅弁屋がいつ、なぜ全滅したのか、公表文や記事あるいはネット上の投稿を見たことがありません。当時からの新幹線改札内の駅弁売店「いわてのお弁当」に、一ノ関駅や秋田、大館、八戸、新青森の各駅、あるいは仙台や東京の駅弁が毎日入荷するため、気付かれることがなかったようです。

今回も駅弁事業者による事前の公表がなければ、米原駅の改札内通路に出ていた駅弁販売の屋台を最近見かけないなとか、新幹線改札内の売店「ベルマートキヨスク」で米原駅弁を見なくなったなと、誰かがSNSに投稿して事後の噂になったことでしょう。逆に、自社サイトへの掲載でも、新聞記事でも、店頭での掲示でも、今ではインターネットやSNSの普及とキーワード検索により広く拡散するようになったため、現地へ行かなくても知る機会が持てるようになったと思います。

現時点で駅弁屋がいなくなることがリアルタイムで判明するケースとして、事業者の倒産があります。例えば大阪府の大阪駅で1888(明治21)年に創業した水了軒が、2010(平成22)年4月20日に営業を停止し破産の手続きを始めたことが同日に報道され、テレビのバラエティ番組でも取り上げられる騒ぎになりました。なお、現在も「八角弁当」などの水了軒の弁当が買えるのは、岐阜県の食品業者が水了軒のブランドを取得して弁当の調製を再開し、のちに大阪で水了軒という会社を設立したためです。

なぜ駅弁や駅弁屋がなくなるのか。
 これも、一般の商店や商品や会社や事業と変わることはないと思います。売上の低迷や赤字であったり、後継者がいなかったり。
 駅弁に独特のものとして、駅構内で営業する権利を鉄道事業者から得て弁当を販売する形態に特有のものとして、その権利を更新しなかったり取り上げられたり、あるいは鉄道会社の子会社であれば事業再編の対象となったことで、駅から駅弁が消えたり、駅弁屋がなくなったりしたことはありました。また、駅の建て替えや連続立体交差事業、駅前の市街地再開発事業を機に、駅弁屋が廃業してしまうこともありました。

駅弁屋がなくなるとどうなるか。倒産や廃業では完全になくなりますが、そうでない事業を続けることがよくあります。昔ながらの駅弁屋は駅前で弁当を調製し駅で販売したため、駅前に土地や建物を持つことが多く、これを使い不動産業になることがよくあり、今回の米原駅でもそうなるようです。他には、駅弁をやめたが駅前の旅館やホテルなどの本業や祖業がある、駅弁屋でなくなったが駅前か市中で引き続き弁当店や食堂あるいは商店を営む、そこで昔の駅弁が今も買えるとファンがわざわざ買いに来る、ということもあります。

そのような事例を首都圏で挙げると、駅弁を日本食堂に引き渡して賃貸ビル会社になった新宿駅や大宮駅、駅から駅弁が消えたと思ったら全国最大手の貸会議室チェーン店の仕出し部門になっていた品川駅、駅弁をやめたが駅ホーム上の立ち食いそば店を営み「唐揚げそば」が名物の我孫子駅、駅弁をやめて他の駅弁屋に駅弁を引き継いで会社も他社へ譲渡した弁当店の「バーベキュー弁当」が地元で深く親しまれて駅売店にも再入荷した木更津駅、などがあります。

駅弁や駅弁屋が生まれる場合

駅弁や駅弁屋がなくなるのは一般の商店や商品や会社や事業と変わらないと思うのに対して、駅弁や駅弁屋が生まれるのは駅弁に独特のものになると思います。駅に弁当店ができただけでは、駅の売店で弁当が売られただけでは、駅弁とみなされたり紹介されるわけではないからです。

駅弁や駅弁屋が生まれることは、駅弁屋の新商品を除きなかなかないため、この40年間くらいの出来事が最近のものとなります。1987(昭和62)年の国鉄分割民営化、あるいは国有鉄道の解体へ至る過程における1980年代の関連事業進出や余剰人員対策により、旧国鉄や現JRでの構内営業の統制が事実上なし崩し的に緩和されたことで、新たな駅弁屋や、駅弁のような弁当が、多く駅へ進出しました。JR九州では1987年の発足直後に大々的な駅弁テコ入れを実施、JR東日本では自社の観光キャンペーン「LOOK EAST」に伴い1989年に既存の駅弁屋に市中の業者を入れた72駅131種類もの新作駅弁を競わせました。JR東海では1987年に新幹線各駅で既存の駅弁屋に「新幹線グルメ」として900円の新作駅弁を作らせて人気を得ました。

JR九州は2004年に駅弁人気投票企画「九州の駅弁ランキング」を実施。毎年の開催を重ねて新八代駅「鮎屋三代」、嘉例川駅「百年の旅物語かれい川」、有田駅「有田焼カレー」、武雄温泉駅「佐賀牛すき焼き弁当」など、新たな駅弁屋と駅弁を開拓しました。JR東日本では2012年に高崎支社で駅弁人気投票企画「駅弁味の陣」を開催、翌年からの全エリアでの展開と毎年の開催を重ねるうちに、東京の新聞やテレビで紹介される注目のイベントとなりました。受賞作のほとんどは既存の駅弁屋や駅弁ですが、対象作の調製元に見慣れない社名が出ることがあり、駅弁として定着するものもあります。

ユニークな取り組みとしては、JR東日本が東北新幹線の新青森駅までの延伸開業を目指し、2010年に子会社の日本レストランエンタプライズに「あおもり駅弁塾」を主催させ、12月4日の開業とともに新青森駅や八戸駅に新たな駅弁屋が出てきたことがあります。こうして、かつての国有鉄道、それ以前の国営鉄道、さらにその前の鉄道国有化前の私設鉄道の時代から、鉄道駅の構内営業として弁当を販売した駅弁屋とは異なる、市中の飲食店や食品業者などやその商品が、駅弁屋や駅弁とみなされたり紹介されています。

かつて日本食堂や鉄道弘済会が駅弁を販売した帯広駅や長崎駅、国鉄時代からの駅弁屋が倒産や廃業で消えた水戸駅やいわき駅、空弁なのか駅弁なのか分かりにくいものの新千歳空港駅や南千歳駅でも、新たな駅弁屋の駅弁が駅で買えます。2005年の大宮駅以降、駅ビルや駅商業施設でなくエキナカという駅そのものの商業施設化が都市部で進み、駅弁と駅弁でない弁当の境界が分からなくなってくると、特に東京駅や京都駅などでは、以前からの考え方では駅弁と呼べないチェーン店の弁当が、雑誌やネットに加え鉄道会社やその子会社からの発信としても、駅弁屋や駅弁として紹介されるようになりました。

私鉄の駅弁は昭和時代からありましたが、2000年代になり雑誌やネットで紹介されるようになり、駅弁や駅弁屋として知られ始めました。「うに弁当」の岩手県の久慈駅、「あじ寿し」の静岡県の修善寺駅、あるいは東武鉄道の駅弁は、それ以前の資料にほぼ登場せず、当時に国鉄やその構内営業中央会が協賛したデパートの駅弁大会に出ることもなく、21世紀からの駅弁とみられているかもしれません。

これらを合わせると、当館調べで全国の駅弁屋は約250社。一般に駅弁屋の団体として知られる日本鉄道構内営業中央会の会員が約80社ですので、その差分がだいたい、ここでいう最近の新たな駅弁屋となるのでしょうか。

昔に遡ると、駅弁屋は鉄道の建設に貢献した人物であったり、駅前にあったり駅前へ進出した旅館や待合所であったり、退職者など鉄道の関係者であったことがありました。例えば米原駅などでは駅前に開業した旅館が駅弁屋になり、岡山駅など全国各地では駅用地を提供したり鉄道建設に協力した家業が駅弁屋になり、横浜駅などでは駅長が退職後に駅弁屋になりました。変わった事例として、料理人が上京する際にたまたま下車した駅で職員の賄い料理を作るよう請われ駅弁屋になった八戸駅があります。

米原駅の駅弁がなくなることについて

実に1889(明治22)年から駅弁を販売し、「湖北のおはなし」など名物も抱える駅弁屋が、駅弁とともに消えてしまうことは残念に思います。一方で、米原駅から駅弁が消えて困る人は、いないのではとも思います。駅の駅弁売店はすでに撤去されたか営業をやめており、7・8番ホーム上で親しまれた立ちそば店も2020年に閉店、車内販売で駅弁が買えることもなくなりました。伝統の駅弁「鱒寿し」を2022年には売り止めており、近年は駅弁大会への出品も見なくなりました。ベルマートキヨスクで名古屋駅か草津駅あるいは東海道新幹線各駅の駅弁が売られれば、その変化に気付かないかもしれません。以前の岐阜羽島駅や京都駅や新大阪駅でもそうでした。

このタイミングで米原駅の駅弁がなくなった主な理由は、公式な撤退理由にも挙げられた「米原はもはや交通の要衝ではなくなった」ことではないかと思います。2024年3月の北陸新幹線の敦賀駅までの開業により、名古屋駅や米原駅と北陸を結んだ特急列車「しらさぎ」が敦賀駅止まりとなり、その利用者が半減しました。新幹線と在来線の乗換客が減った駅で駅弁屋が消えていたことはかつて、長岡駅や盛岡駅でもみられました。2020年以降のコロナ禍で一時は半減した東海道新幹線の通過客は元に戻りましたが、2022年のダイヤ改正で昼間に半減した新快速の本数はそのままです。米原で駅弁を買う客が、いよいよ少なくなってしまったのではないでしょうか。

米原は明治20年代からの鉄道の要衝ですが市街は小さく、いわゆる平成の大合併による特例がなければ市制が敷けないほど。1974年の湖西線の開業や1980年代までの国鉄や鉄道貨物の衰退で鉄道の町でもなくなり、その後に駅前や駅跡で試みられた開発も停滞しています。駅でなく駅前や市中で弁当店あるいは食品業者として営業を続ける場も、ここにはなかったのでしょう。

今回の報道や情報の拡散により、米原駅弁は2月末を待たず駅弁の品切れや予約の停止を行う賑わいのようです。なくなるから賑わう、なくなるから惜しまれるのは、駅弁に限らず残念ながら仕方のないこと。地域と駅弁の歴史に残る出来事のひとつとして、記録や記憶されることとなります。

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