東京駅から新幹線で2時間強。京都市は京都府の県庁所在地である、人口約150万人の市。9世紀末の平安時代からの都であり、世界的に著名な古都として、年に5500万人もの観光客が訪れる。駅弁は見た目に多種が売られるが、それらは他府県の駅弁や近隣の弁当であり、京都駅の駅弁や駅弁屋はなくなっている。1877(明治10)年2月6日開業、京都府京都市下京区烏丸通塩小路下ル東塩小路町。
2021(令和3)年春までに、京都駅や新大阪駅で発売か。「古都京幕ノ内」という名前から、京都駅の駅弁と言わざるを得ないと思うが、調製元は兵庫県は姫路駅の駅弁屋である。松花堂弁当のような正方形の4区画に、栗赤飯、いなりずしと酢の物、ゆばや椎茸などの煮物、サワラの塩焼きと鶏もも照焼と玉子焼とうぐいす豆などを詰める。こうなるともはや、古都や京に加えて幕ノ内でもないけれど、おいしい食事ではあった。
2005(平成17)年の9月または12月に、新幹線京都駅限定の駅弁として発売。翌年1月には新大阪駅での販売も始まり、今に至る。朱塗りの折箱を模したボール紙の容器に入れた黒いトレーに、ちりめん山椒と大根桜漬を載せた白御飯、湯葉やニンジンやサトイモなどの煮物、牛すき焼き、ヒメタケ天、サワラ味噌漬焼、鶏照焼、薩摩揚げ、うの花などを詰める。
京都での普通の家庭料理「お番菜(おばんざい)」をイメージしたという。考えながら食べると、ちょっと変わったおかずが入っているなと思わせる、普段使いの幕の内駅弁。価格は購入時で1,000円、2014年時点で1,030円、2019年時点で中身がだいぶ変わって1,080円。2021年までの販売か。
※2022年4月補訂:終売を追記京都駅で昭和の頃から売られていた、並等の幕の内駅弁。経木枠の長方形の容器に経木のふたをかけ、葵祭の牛車を描いたであろうイラストを掲載する掛紙で包み、ひもで十字にしばる。中身はゴマ振り俵飯に焼鮭、玉子焼、かまぼこ、ハンバーグと称する醤油メンチ、ハム揚げ、タケノコやフキや高野豆腐や金時豆など。小粒ながら幕の内駅弁の三種の神器を入れているものの、おかずとして他にめぼしいものがなく、白御飯を持て余す感じ。野暮な方向に個性的だと思う。
調製元の萩の家(はぎのや)は、1891(明治24)年に創業した老舗の駅弁屋。しかし今では京都駅の在来線エリアから完全撤退、新幹線改札内でも直営売店はホーム上で昇降口から背を向けられ、弁当売店ではJR東海の100%子会社の弁当と併売こそされているものの、ショーケースでの取り扱いは当然に子会社優先。写真のとおり見た目が古風、言い換えると冴えないこともあり、劣勢に立たされている印象を受ける。ネット上ではJRに追い出されたのではないかとさえ書かれていた。
なお、萩の家の駅弁は、2008年9月までに在来線改札内から売店が消え、2010年9月に新幹線改札内から商品が消え、同年12月に売店も閉店してしまい、今では駅で買うことができなくなっている。梅小路蒸気機関車館の敷地内の弁当販売小屋では、晴天の土休日に限りこの弁当が購入できたが、2016年4月の京都鉄道博物館へのリニューアルに向けた2015年8月の閉館により失われた。
※2017年8月補訂:終売を追記1980年代頃の調製と思われる、昔の京都駅弁の掛紙。下記の1983年2月のものと同じ。価格がそれより安い500円で、「いい日旅立ち」のロゴマークが付いているので、調製年月を絞り込めるかもしれない。
1982(昭和57)年11月13日の調製と思われる、昔の京都駅弁の掛紙。見事な紅葉が美しい。京都駅の並等幕の内駅弁について、掛紙の絵柄はこの頃も21世紀も変わらないので、これは秋季限定で使われた掛紙なのだろう。上部には小さく、もみじ祭の案内が記される。
1983(昭和58)年2月27日の調製と思われる、昔の京都駅弁の掛紙。どうも京都・葵祭の牛車を描いているらしい。
京都駅で昭和の頃から売られていた、中等の幕の内駅弁。正八角形の経木折を二段重ねて経木のふたをかけ、屏風と扇子だと想像するイラストを掲載する掛紙で包み、ひもで十字にしばる。中身は下段が梅花型白御飯に柴漬け、上段がおかずで焼サワラ、玉子焼、紅白のかまぼこ、鶏ササミ揚げ、ハム、タケノコ、高野豆腐、ひじき、昆布巻、金時豆など。600円版と比べて中身も見栄えも価格差以上のグレードアップ、これならばおかずが不足することもない。
日本最初の鉄道は開港場の横浜と帝都の新橋を結び、同じく開港場の神戸から商都の大阪を経由して古都の京都を結んだ。ここで挙げた5駅のうち4駅は高架駅となり、駅の表裏がスムーズに移動できるが、京都駅だけは小移転こそあれ相変わらず地上に駅がある。京都駅の高架化は明治時代にいち早く実行されようとしたが、1915(大正4)年の大正天皇の即位の礼に工事が間に合わないとして、地平構造のままその前年に駅舎を新築、高架化の機会を逸したまま現在に至る。近鉄京都線は東海道新幹線の建設に伴い高架化され、その真上を新幹線が使っている。
なお、萩の家の駅弁は、2008年9月までに在来線改札内から売店が消え、2010年9月に新幹線改札内から商品が消え、同年12月に売店も閉店してしまい、今では駅で買うことができなくなっている。梅小路蒸気機関車館の敷地内の弁当販売小屋では、晴天の土休日に限りこの弁当が購入できたが、2016年4月の京都鉄道博物館へのリニューアルに向けた2015年8月の閉館により失われた。
※2017年8月補訂:終売を追記1983(昭和58)年6月7日の調製と思われる、昔の京都駅弁の掛紙。この掛紙は屏風と扇子を描いているのだろうか、やはりだいぶ抽象的なもの。
京都駅で昭和の頃から売られていた、上等の幕の内駅弁。経木枠の正方形の容器を二段重ねて経木のふたをかけ、「山王祭礼図」「祇園精舎」と欄外に書かれるイラストを掲載する掛紙で包み、ひもで十字にしばる。中身は下段が白御飯の俵飯に菱形のゆかりめし、上段がおかずで焼サワラ、出汁巻卵2切れ、紅白のかまぼこ、うなぎ蒲焼、ハム、タケノコ、高野豆腐、笹巻麩、昆布巻など。一切の媚びがない個性を感じる、千円で中身を楽しめる京風弁当。同じ名前で3ランクもの幕の内弁当を売る駅弁屋も、もう京都にしか残っていないのでは。
京都市街の地名は難解で、「東洞院通七条下ル二丁目東塩小路町」など呪文か暗号かと思うところだが、電車や自動車に頼らず街を歩いていくと、意外に便利な所在地表記であると思えてくる。この事例でも、東洞院通を七条から下る(南下する)と二丁目に東塩小路町があるぞ、と解釈して歩いていくと、確かにそこへたどり着くもの。
なお、萩の家の駅弁は、2008年9月までに在来線改札内から売店が消え、2010年9月に新幹線改札内から商品が消え、同年12月に売店も閉店してしまい、今では駅で買うことができなくなっている。梅小路蒸気機関車館の敷地内の弁当販売小屋では、晴天の土休日に限りこの弁当が購入できたが、2016年4月の京都鉄道博物館へのリニューアルに向けた2015年8月の閉館により失われた。
※2017年8月補訂:終売を追記1992(平成4)年3月29日16時の調製と思われる、昔の京都駅弁の掛紙。その絵柄は上記の2009年1月のものと同じ。出典を調べきれないが「山王祭礼図」「祇園精舎」だという。価格も同じ。
1985(昭和60)年11月11日10時の調製と思われる、昔の京都駅弁の掛紙。京都らしいような、らしくないような、そんなマンガのデザインだと感じる。
入手状況等から1972年の調製と思われる、昔の京都駅弁の掛紙。1985年のものと比較して、価格や調製印の位置やロゴマークなどの相違点はあるが、絵柄自体はまったく同じである。それが傾いているのはスキャナの操作ミスではなく、実際に図柄が角度をもって印刷されているもの。
1970年代のものと思われる、昔の京都駅弁の掛紙。上記の駅弁「お弁当」と、絵柄はまったく同じで、値段のみ異なる。
1970年代のものと思われる、昔の京都駅弁の掛紙。汽車と駅名標でデザインされた、京都駅弁の掛紙では珍しい、鉄道が主体の絵柄になっている。1972(昭和47)年10月には、京都駅に隣接した梅小路機関区に、国鉄各地のSLを集めた梅小路蒸気機関車館がオープンした。
1970年代のものと思われる、昔の京都駅弁の掛紙。絵柄は上記の「お弁当」と同じで、背景色のみ異なる。
1971(昭和46)年9月16日6時の調製と思われる、昔の京都駅弁の掛紙。版画のように女性を描く。
昭和30年代頃の調製と思われる、昔の京都駅弁の掛紙。朝食向け駅弁は昭和末期から平成初期にかけて流行したと思うが、こんな昔からあったのかと思う。絵柄6点のうち1点だけ京都らしくないビルは、三代目の京都駅舎と思われる。
1942(昭和17)年の調製と思われる、昔の京都駅弁の掛紙。10月14日は鉄道記念日と銘打ち、明治初年つまり鉄道開通時の列車と、現在つまりこの当時の列車の姿を並べて描く。調製印に年月日が見えないが、明治5年の新橋〜横浜間開通から丁度満70年と書いてあるので、1872+70=1942年のものだろう。鉄道記念日は1922(大正11)年に当時の鉄道省が、新橋駅〜横浜駅の鉄道の公式な開業日にちなみ、これを新暦に換算して制定した。1994(平成6)年に当時の運輸省が「鉄道の日」に改称し、今に至る。
1942(昭和17)年の調製と思われる、昔の京都駅弁の掛紙。上記の掛紙「御辨當」と、まったく同じもの。1939(昭和14)年9月の価格等統制令に基づく価格停止品を示すマル停マークが付いたり、列車の乗降に関するマナーを呼び掛けたり、記念の掛紙でありながら戦時色を持つと思う。
第二次大戦前のものと思われる、昔の京都駅弁の掛紙。おかずの掛紙は、もみじの葉1枚でデザインされた。御飯の掛紙は鉄道省の大阪運輸事務所管内の各社で共通のもので、当時の駅弁販売駅がみてとれる。天王寺駅や奈良駅や米原駅がそうでないのは、所管が異なるためかどうか。
おそらく1920年代、大正時代末期か昭和時代初期のものと思われる、昔の京都駅弁の掛紙。京都の街並み雰囲気だけで描いているのかどうか。かつての幹線筋の主要駅には一日中旅客列車が発着しており、調製印から推測される11月12日午前3時という深夜の駅弁調製も、珍しくはなかったのではないかと思う。
第二次大戦前の調製と思われる、昔の京都駅弁の掛紙。小さい紙片に必要最低限の内容しか書かれていない簡素な掛紙も、左上部に二羽のひよこを描くお遊びはある。
1910年代、大正時代のものと思われる、昔の京都駅弁の掛紙。1915(大正4)年10月に完成した二代目京都駅舎の写真が使われる。京都駅は後の大阪駅や神戸駅のように、線路を高架化して耐火造の駅舎を設ける予定が、1915(大正4)年11月の大正天皇御大典に間に合わせるため、高架化を諦めて木造二階建の駅舎を建てた。駅舎は第二次大戦後の1950(昭和25)年11月に焼失、高架化はいまだに実現していない。