東京駅から新幹線で3駅35分。小田原市は神奈川県の南西部で相模湾に面する人口約19万人の城下町かつ宿場町。関東地方の西の出入口として、戦国時代や江戸時代に歴史の舞台となった。駅弁は明治時代に国府津駅で創業した、東海道本線では最古の駅弁屋が健在だが、実態はJRや小田急の子会社が近隣のものを含めた駅弁を集めて売る。1920(大正9)年10月21日開業、神奈川県小田原市栄町1丁目。
小田原駅の幕の内駅弁。「おたのしみ弁当」の名では、1926(昭和11)年10月7日の発売というが、第二次大戦前の掛紙を見たことがない。1954(昭和27)年7月3日に外食券がいらない駅弁「屑米おたのしみ弁当」を100円で発売、以後「おたのしみ弁当」といえば、小田原駅や熱海駅あるいは国府津駅などで売られる幕の内タイプの駅弁である。
平たく大きな容器を、カルタ柄の大きな掛紙で包む。中身は日の丸御飯に焼鮭、かまぼこ、玉子焼で幕の内駅弁の骨格をなし、アジフライ、とりそぼろ、焼売2個、ちくわなどの煮物、金時豆、大根醤油漬でささやかな個性を加える。昭和時代以降は紹介例が絶無だと思うが、こうやって平成が終わる今も、ちゃんと駅で売られる。いつの間にか「2017小田原セレクション受賞」という箔を付けた。価格は2010年時点で840円、2014年時点で880円、2022年1月15日から930円、2023年6月から980円。
※2023年8月補訂:値上げを追記2022(令和4)年10月に小田原駅や東京駅などで発売か。日本鉄道構内営業中央会の鉄道開業150年記念復刻駅弁企画により、同月から期間限定で販売された31社34駅弁のひとつ。JR東日本の駅弁キャンペーン「駅弁味の陣2022」にエントリー。掛紙には「国府津駅開業135周年記念」とも書いてあり、三重にキャンペーンを打つ欲張りな駅弁。絵柄に使う昔の国府津駅弁の掛紙は、熱海駅があり丹那トンネルのない35銭の上等御辨當なので、きっと1925〜1930年のものだろう。
容器と中身は現行の小田原駅弁「特製おたのしみ弁当」と、まったく同じ。日の丸御飯に、焼鮭、かまぼこ、玉子焼、アジフライ、煮物、大根醤油漬、シュウマイ2個、とりそぼろ、金時豆。上等を名乗るが並等の、定番で安心の幕の内駅弁。それなのに値段は「おたのしみ弁当」より270円も高い1,200円。人気の駅弁ならば指摘や非難を受けるだろうが、誰も気が付いていないのか、10月10日時点でそんな感想は聞かれない。調製元の公式サイトにも載っていない。
2019(令和元)年7月12日に発売。やや小柄な容器に白飯を敷き、具と梅干と海苔で覆い、煮物と焼鮭と玉子焼と漬物を添える、並等の幕の内駅弁であり、駅弁タイプの海苔弁当。きっと東京でブレイクした郡山駅弁「海苔のりべん」にあやかった商品だろうが、飯と海苔の間の具にキンメダイの有馬煮をたっぷり塗ることで、現在の小田原駅弁の個性が反映されている。1年間ほどの販売か。
※2021年3月補訂:終売を追記市販のボール紙製折箱に食品表示ラベルを貼り、製造年月日と消費期限を書いたシールで留める。黒いトレーに入った中身は、日の丸御飯に鮭塩焼、鶏唐揚2個、玉子焼、サトイモとニンジンとタラの芽とカボチャの煮物、海老とタケノコとアナゴの天ぷらなど。
つまり中身は特製幕の内で、内容と価格は合っていると思うが、小田原の駅弁屋がこういう惣菜を駅弁売店で売るのは初めて見たので驚いた。夏休み期間の繁忙期で掛紙や容器が足りなかったか、仕出し向けを回してきたのだろうか。風味もなんとなく仕出し弁当風だった。現存しない模様。
※2016年9月補訂:終売を追記特殊駅弁が豊かな小田原駅で、なかなかお目にかかれない普通の幕の内弁当。断面が赤い黒塗りの容器に朱色の掛紙をかける。中身は俵飯にキンメダイの西京焼・蒲鉾・玉子焼で幕の内弁当の基本を押さえて、さらに海老天等の揚げ物に高野豆腐に椎茸等の煮物や鯵すり身という具合の、上品な駅弁。現存しない模様。
※2016年9月補訂:終売を追記2011(平成23)年10月8日から10日までに東京駅で開催された「第14回東日本縦断駅弁大会」で販売されたお弁当で、過去の小田原駅弁を復刻したものだという。経木折の形状を模した容器に、51年半前の駅弁掛紙を刷ったもので包む。中身は日の丸俵飯にサワラ照焼、かまぼこ、玉子焼、アジフライ、海老天、シュウマイ、とりそぼろ、オレンジとチェリーなど。
一見してとても正統派の幕の内駅弁な普通弁当に見えて、おかずにシュウマイやとりそぼろを入れて小田原駅弁を主張。1960(昭和35)年5月25日の小田原城天守閣完成の絵柄と調製印を持つ掛紙は地味でも、復刻駅弁大会を彩る大切な存在である。
掛紙に描かれる小田原城の天守閣は、宝永3年(1706年)に再建され、明治3年(1870年)の廃城で除却された。今あるものは、当時の図面や模型を参考に、外観のみ復元して鉄筋コンクリート造で建てられたもの。東海道線のすぐ脇に建っているため、車窓からは見づらい方向に一瞬見えるだけである。中心市街地のシンボルとして半世紀を経て、耐震補強の必要性、周囲の高層建築物による景観問題、木造での復元を求める声など、様々な課題を抱えているように聞こえる。
1975(昭和50)年7月3日14時の調製と思われる、昔の小田原駅弁の掛紙。ふざけている要素はまったくないはずが、大名行列の再現風景がなんとなくユーモラスに見える。
1973(昭和48)年5月25日10時の調製と思われる、昔の小田原駅弁の掛紙。小田原提灯の写真の中に、おそらく小田原北條五代祭りでの武者行列のときの、小田原城の写真をはめた。
1965(昭和40)年8月29日12時の調製と思われる、昔の小田原駅弁の掛紙。2年前の同じ名前の駅弁の掛紙を、絵柄はそのままで赤インクを青インクに変えただけのように見える。季節柄なるべく早く食べろ旨の注意書きは、今では一年中書かれて当たり前だが、この当時のここの駅弁では本当に季節柄で追記していたことが分かる。
1963(昭和38)年10月8日17時の調製と思われる、昔の小田原駅弁の掛紙。つまり東海道新幹線開業の一年前のもの。掛紙には小田原城、小田原提灯、駕籠が描かれているか。小田原提灯は折りたたみOKの携帯用提灯として、旅が徒歩であった時代に夜道で重宝された。
1960年代のものと思われる、昔の小田原駅弁の掛紙。収集者は1963(昭和38)年6月17日の調製とみなし、箸袋とともにスクラップブックに貼り付けた。調製元の電話番号と上下の駅弁掛紙を見比べて、おそらく1962(昭和37)年前後のものだろう。小田原ちょうちん、小田原城、ここでは箱根八里と称する駕籠を描いた。
1962(昭和37)年3月31日12時の調製と思われる、昔の小田原駅弁の掛紙。掛紙に描かれているのは小田原城と梅の花か。
1961(昭和36)年11月20日5時の調製と思われる、昔の小田原駅弁の掛紙。小田原城址と箱根八里を描いた。駅弁でおたのしみ弁当といえば、小田原駅や熱海駅の幕の内弁当。当時は「お弁当」やその旧字体で表現する駅がほとんどだった中、小田原ではこの頃までにこの名前を使い始めたことがわかる。
1940年代、第二次大戦中のものと思われる、昔の小田原駅弁の掛紙。収集者は1941(昭和16)年4月19日の調製とみなし、御飯の掛紙に数字を記した。おかずの掛紙には1940(昭和15)年6月の改正暴利行為等取締規則による公定価格を示すマル公マークを付けて間接的に、鉄道省の東京鉄道局管内の各社で共通と思われる御飯の掛紙には鉄道利用時のマナー啓発でやや直接的に、戦時であることを示す。
第二次大戦前のものと思われる、昔の小田原駅弁の掛紙。広重画、保永堂、東海道五拾三次、小田原の、今にあまり出回らない絵柄のものを描く。アメリカ・ニューヨークのメトロポリタン美術館の公式サイトに掲載されていた。
おそらく1930年代、昭和10年前後のものと思われる、昔の小田原駅弁の掛紙。今も小田原の城址公園で梅雨時に約1万株の花を咲かせる花菖蒲を描く。
第二次大戦前のものと思われる、昔の小田原駅弁の掛紙。入道雲が湧く大空のもと、ヨットの浮かぶ大海原に、抜群のプロポーションの女性が飛び込むデザインには古さを感じさせない。現代なら女性の胸をもっと大きく描くと思うが、巨乳が好まれるようになったのは戦後しばらく経ってからのこと。それまではむしろ、女性はさらしなどを巻いて小さく見せる努力をしたのだとか。
第二次大戦前のものと思われる、昔の国府津駅弁の掛紙。価格や鉄道に関する記述がないため、仕出し弁当向けの掛紙かもしれない。お弁当の「別製」とは、どんな意味を持つのだろうか。
1973(昭和48)年に小田原駅などで販売された駅弁「創業85周年記念おたのしみ弁当」の掛紙に印刷された、調製元が明治時代のものとする掛紙の絵柄3点。駅弁の掛紙に価格や注意書きを印刷すると定められた、1900年代や明治30年代後半より前のものだろう。このようなスタンプが紙に押されても、今の人にはこれが駅弁の掛紙とみなすことは無理だろうから、古物として市場に出てくることはないと思う。印刷の網点にかすれた記載内容を読み取るのは困難だが、おそらく函根(箱根)、小田原、国府津の名所とその交通案内を記したようにみえる。東華軒は明治時代からの駅弁や構内営業に関する文書を保有しており、博物館の特別展で展示されたり図録に掲載されることがある。