新大阪駅から新幹線で35分。米原市は滋賀県の東部で琵琶湖に面した、人口約4万人の宿場町。重要な街道や鉄道や高速道路が交わる、交通の要衝である。駅弁は明治時代からの駅弁屋が健在で、マスや牛肉などの駅弁を売る。1889(明治22)年7月1日開業、滋賀県米原市米原。
1937(昭和12)年に発売。下記の駅弁「元祖鱒寿し」の紹介文上でも登場時期を同じとしているが、本来はこちらのタイプの姿寿司であった。「元祖面構え鱒寿し」の駅弁の名前では、東海道本線の開業120周年を記念する駅弁として2009(平成21)年7月に発売し、汽車土瓶と併せて12月までの日祝日限定で1,500円にて一日20個が販売されたもの。ベニマスを開いて酢で締めてまるまる1匹分、同じ型に整形した近江米「日本晴」の酢飯とぴったり合わせている。
2009年10月14日の農林水産省近畿農政局「地産地消駅の弁当メニューコンテスト」において、近畿農政局長賞を受賞した8駅弁のうちのひとつ。その応募の際に、イチゴと信楽焼のぐい飲みに入れたミョウガ柴漬けを追加したのではないかと思う。もはや見た目だけで購入を避けられてしまう弁当かもしれないが、昭和の頃までは全国各地で見られた姿寿司の駅弁と、やはり昭和の頃には米原駅で評判であった駅弁の姿を守る、歴史的や文化的に味わいたい作品である。2010年以降も要予約駅弁として存続している模様。価格は2010年の購入時で1,000円、2020年時点で1,200円。
※2020年5月補訂:値上げを追記全国初のマス類養殖場として明治時代からの伝統を持つ、滋賀県醒井養鱒場(さめがいようそんじょう)で養殖されたマスを使う押寿司として、1937(昭和12)年に発売。長方形で内部が銀色をした紙製容器に、握り寿司風の鱒寿司を10個、斜めに固まって配置する。底には笹の葉が一枚。笹の葉の上に乗る乗らないなどの差で一個毎に異なる風味が楽しめた。2000年代には醒井養鱒場の生まれでないマスを使用したという。
マス寿司の駅弁は1912(明治45)年から駅弁となっている富山駅「ますのすし」が最も有名であるが、米原駅のこれは駅弁では初めて姿寿司で登場したものであり、そのためこちらが元祖と名乗る。味は富山に比べて飯もマスも、水気や脂気が多く柔らかいと思う。価格は2002年の購入時で1,100円、2011年時点で1,200円。2022年で終売か。
※2023年4月補訂:終売を追記2020(令和2)年1月の京王百貨店の駅弁大会で販売。おそらく福井県の催事業者のプロデュースで、記載された価格から明治時代のものと思われる、米原駅弁の掛紙の絵柄を使用し、復刻掛紙駅弁として販売した。中身は復刻でなく、容器も値段も通常版の米原駅弁「元祖鱒寿し」。塩気と飯の厚さがあるマスの押寿司が10切れ、ボール紙製容器にほぼぴったり詰まる。
上記の名物駅弁「元祖鱒寿し」の、値段と分量をだいたい半分にしたもの。もちろん中身は変わらない。ジューシーでも塩気が強く利いた、駅弁の味。価格は2013年の購入時で600円、2014年時点で650円。2019年頃までの販売か。
※2022年4月補訂:終売を追記駅弁屋の駅弁でないいなりずし。写真のとおり、お惣菜のパッケージにおいなりさんが5個。駅弁屋の箸袋に米原を感じ、ごま混じり飯のふんわりとした風味が軽食に合った。2018年までに「復刻いなりずし」の名を付け、掛紙がかかるようになり、価格は2019年時点で350円、2022年時点で400円。2022年で終売か。
かつては東京発大垣行の夜行普通列車、通称「大垣夜行」や、その後継である夜行快速「ムーンライトながら」の客が米原駅に着く午前7時台には、ホーム上の駅弁売店を開けて各種の駅弁を売っていたと思うが、今回の訪問時は開店前。橋上駅舎へ上がり駅弁を探すと、置いてある駅弁は幕の内と「牛肉弁当」「近江の味」のみ。春と夏と冬のシーズン中は在来線駅構内を埋めるほど押し寄せる青春18きっぷの客は、駅弁にとって商売にならない存在なのだろうか。
※2023年4月補訂:終売を追記駅弁とともに売店で売られていたお弁当。惣菜弁当のプラ製上げぶた容器を、着物のような柄と商品名を印刷した掛紙で巻く。中身は薄い昆布で巻いた焼き鯖寿司が6切れ、かき揚げが1個と煮物などという、焼き鯖寿司を弁当に仕立てた珍しい構成。ポロポロした焼き鯖寿司はサバよりタイの印象だが、よい食事になる。調製元は名称と所在地と電話番号が一致しない謎の業者。現存するか不詳。
1982(昭和57)年4月4日9時の調製と思われる、昔の米原駅弁の掛紙。インパクトはないが的確に、おそらく醒ヶ井養鱒場のマスを描いている。
1960年代のものと思われる、昔の米原駅弁の掛紙。現存するものと異なり、昔は鱒寿しの駅弁の掛紙は、マスを主題に描いていた。「東海車販KK販売」と書いてあるため、車内販売向けの掛紙かもしれない。
空調完備で窓が開かない特別急行列車向け車両が出現したり、動力近代化で列車の停車時間が短くなったことから、ホーム上での立ち売りでは駅弁を売りづらくなったため、各地の駅弁屋は共同で車内販売会社を立ち上げ、列車内で弁当などを売るようになった。東海車販は井筒屋や崎陽軒など東海道本線の構内営業者14社が、新幹線の開業も見据えて1961(昭和36)年8月に設立、同年10月から33本の特急や急行で車内販売を始めた。後のビュフェとうきょう(BT)、ジェイダイナー東海(JD)、ジェイアール東海パッセンジャーズ(JRCP)を経て、現在のJR東海リテイリング・プラスの一部。
1938(昭和13)年10月20日8時の調製と思われる、昔の米原駅弁の掛紙。石山秋月(いしやまのしゅうげつ)、瀬田夕照(せたのせきしょう)、粟津晴嵐(あわづのせいらん)、矢橋帰帆(やばせのきはん)、三井晩鐘(みいのばんしょう)、唐崎夜雨(からさきのやう)、堅田落雁(かたたのらくがん)、比良暮雪(ひらのぼせつ)の近江八景を簡単に描く。
1930年代、戦前の昭和時代の調製と思われる、昔の米原駅弁の掛紙。寺社や島や峠など近隣の名所を描いていると思われるが、イラストではそれらの区別が全然付かない。
おそらく1920年代、大正10年代のものと思われる、昔の米原駅弁の掛紙。調製印欄がなく、調製印が押され、意見等を記す欄がある。当時も今も変わらない山や寺などを地味に描く。
1900年頃、明治30年頃のものと思われる、昔の米原駅弁の掛紙。当時は駅弁掛紙の記載事項に制約がなかったはずで、「近江米原停車場構内」の文字がなければ、駅弁の掛紙と認識されることはなかっただろう。中身はおそらく助六寿司か。国鉄構内営業中央会「会員の家業とその沿革」によると、米原駅で中村某が構内営業を行ったのは明治30年頃から約1年半とのことで、現存することが奇跡的な駅弁掛紙だと思う。