新大阪駅から新快速電車で約50分。明石市は兵庫県の南部で瀬戸内海の播磨灘に面した、人口約30万人の城下町。有史以前から陸上や海上の交通の要衝であったと考えられ、江戸時代に松平氏10万石の城下町であり、明治時代に日本標準時となった東経135度子午線がここを通り、第二次大戦後は工業と宅地で発展した。駅弁は明治時代からの構内営業者が手掛け、鯛寿しは名物であったが、1993年までに撤退し消えた。1888(明治21)年11月1日開業、兵庫県明石市大明石町一丁目。
1987(昭和62)年11月13日の調製と思われる、昔の明石駅弁の掛紙の一部。明石城の坤櫓、明石市立天文科学館、新幹線電車などを描く。JR西日本のロゴマークが付くが、JR西日本が調製したものではない。1987(昭和62)年の国鉄分割民営化の頃は駅弁の掛紙に加え、JR各社が出したものではない市中の地図や広告などに、このJRマークが広く使われていた。
1987(昭和62)年11月13日の調製と思われる、昔の明石駅弁の掛紙の一部。明石城の坤櫓と巽櫓、明石市立天文科学館、タコとサザエとタイ、1975(昭和50)年3月の新幹線博多開業の前に明石を走っていたタイプの特急電車を描く。日本鉄道構内営業中央会の「鉄」のつくりが「失」でなく「矢」なのは、1987(昭和62)年4月の国鉄分割民営化で発足したJR西日本などの各社が、金を失うと読める鉄の字は縁起が悪いとして、社名の表記にこの文字を使った影響を受けていると思う。
1987(昭和62)年11月25日の調製と思われる、昔の明石駅弁の掛紙の一部。「海鰻」と書いて「あなご」と読ませる。「駅弁の旅」山と渓谷社(1988)によると、明石沖のマアナゴの炭火焼きのバッテラを、1本7切れ詰めた中身だった。原材料の高騰で1991(平成3)年までに販売を休止、1993(平成5)年春までの調製元の駅弁からの撤退により失われた。
1987(昭和62)年11月25日の調製と思われる、昔の明石駅弁の掛紙の一部。1958(昭和33)年10月の発売という記事のある明石駅の鯛寿しは人気が高く、売り切れでなかなか買えなかったという。「駅弁の旅」山と渓谷社(1988)によると、明石沖のマダイのバッテラを、1本7切れ詰めた中身だった。原材料の高騰で1991(平成3)年までに販売を休止、1993(平成5)年春までの調製元の駅弁からの撤退により、本当に幻の駅弁となった。