東京駅から東北新幹線はやぶさ号で2時間強。盛岡市は岩手県の中部に位置する、人口約29万人の城下町で県庁所在地。古くから人が住み、地域の拠点があり、江戸時代に南部氏盛岡班の城下町が確立。河川も道路も鉄道も高速道路も新幹線も分岐する交通の要衝で、行政や商工業の集積がある。駅弁は明治時代からあるものの、21世紀に入ると国鉄時代からの駅弁屋2社が消え、東京資本の駅弁屋2社の支店も消え、今は仙台駅や青森県あるいは東京の駅弁を販売。1890(明治23)年11月1日開業、岩手県盛岡市盛岡駅前通。
1930年代のものと思われる、昔の盛岡駅弁の掛紙。価格が30銭で、花輪線湯瀬駅が存在し、戦争を思わせる記述がないため、1918(大正7)年のものでなければ、1931(昭和6)年10月以降、1940(昭和15)年前後までのものだろう。雪山の写真をどっしり使い、今もある温泉地(花巻、湯瀬、繋)と、今は聞かないスキー場(田山、中山、区界、松草)とその最寄り駅を記す。
1933(昭和8)年6月19日6時の調製と思われる、昔の盛岡駅弁の掛紙。今も盛岡の風景である岩手山や桜に加えて、横川省三銅像を描く。横川省三は盛岡の偉人で自由民権運動家。盛岡市の高松公園に1932(昭和7)年または1930(昭和5)年に銅像が建てられたが、1943(昭和18)年または1944(昭和19)年に金属供出で接収され、今は台座のみが残る。
1940年代前半、昭和10年代後半の、12月11日9時の調製と思われる、昔の盛岡駅弁の掛紙。盛岡市内で、今も桜の名所である高松公園の高松の池の夜桜と、今は台座のみ残る岩手公園の南部利祥中尉銅像を描く。「國民精神總動員」「皇軍の將士を慰問しませう銃後の守りを固めませう」という戦時の文字を持ち、色調もくすんでいると思う。
1950年代、昭和30年前後のものと思われる、昔の盛岡駅弁の掛紙。上等でも特製でもない100円の普通弁当は1954(昭和29)年以降で、調製元の電話番号が3桁なのは盛岡市では1955(昭和30)年頃までらしく、きっとその頃のものだろう。掛紙の左右にマナー啓発を記すのは、当時の駅弁掛紙として標準的だが、そのフレーズが「押さず仲良く順序よく」「きれいにしませう車内も我が家」「一人の新説明い旅路」と、他では見られないものだと思う。調製元かこの地域独自の標語なのだろうか。このように、昔は良かった調で振り返られることも多い旅客のマナーは、実は昔も今も大差ないと思われる。
1960年代、昭和40年前後の、9月5日18時の調製と思われる、昔の盛岡駅弁の掛紙。盛岡の市内局番が1桁だった、1960(昭和35)年頃から1968(昭和43)年頃のものか。おかずの掛紙に、盛岡近郊の小岩井農場、平泉金色堂、盛岡名所天然記念物石割桜を描いた。
1960年代、昭和40年前後の、9月5日18時の調製と思われる、昔の盛岡駅弁の掛紙。盛岡の市内局番が1桁だった、1960(昭和35)年頃から1968(昭和43)年頃のものか。盛岡で山を描けば岩手山だと思うが、それを意識した絵柄に見えない気もする。
昭和50年代、1980年前後のものと思われる、昔の盛岡駅弁の掛紙。東北6県それぞれに絵柄を用意し、岩手県では南部鉄器をモチーフにした、国鉄の観光キャンペーン「北へ向かって」のアイコンがある。
昭和50年代、1980年前後のものと思われる、昔の盛岡駅弁の掛紙。ジンギスカン弁当は盛岡の珍駅弁として一部に根強い支持があり、平成時代の販売もあったようだが、調製元の駅弁からの撤退により失われた。
1980年代、昭和60年前後のものと思われる、昔の盛岡駅弁の掛紙。南部牛追唄と赤ベコを描く、なんとなく東北らしい絵柄。
1987(昭和62)年12月19日16時の調製と思われる、昔の盛岡駅弁の掛紙。上記の掛紙「南部の牛めし」と同じであり、この年の4月の国鉄分割民営化を反映して、最下段の表記が「国鉄構内営業中央会員」から「日本鉄道構内営業中央会会員」に書き換えられた。
1980年代、昭和60年前後のものと思われる、昔の盛岡駅弁の掛紙。属地性のない商品名と掛紙の絵柄だが、その形状がおにぎり型になっているのはユニーク。
1982(昭和57)年7月26日8時の調製と思われる、昔の盛岡駅弁の掛紙。調製印に年の表記がないが、「祝東北新幹線開業」の捺印があるため、1982年のものと判断。2004年まで売られた同じ名前の駅弁と、掛紙の絵柄はほとんど変わらない。中身もおそらく同じだろう。
1992年8月12日11時の調製と思われる、昔の盛岡駅弁の掛紙。絵柄は上記の1980年代や、下記の2000年代と変わらない。年の表記がない調製印が、年の印字もあるラベルに変わり、調製年月日が分かるようになった。
1990年代の、10月30日の調製と思われる、昔の盛岡駅弁の掛紙。上記の1992年8月の掛紙と同じ。ラベルの表記が潰れて調製年が特定できないが、JR東日本の観光キャンペーン「Bound for the Heartland, Japan. その先の日本へ。」ロゴマークを信じると、1992〜1995年のものとなりそう。
盛岡駅で伝統かつ無名の鶏飯駅弁。味気ないホカ弁向けの白い容器を、鶏を描いた何十年も変わらない味のある掛紙で包み、紅白の紙ひもでしばる。中身は味付飯に少量のスライス鶏照焼が載り、あとは業務用な錦糸卵やクリームコロッケや焼売や鶏肉団子など。見た目に味気なく、確かにおかずはそんなものだが、鶏と飯がヘルシー、薄味、風味の豊かさを同時に併せ持つ感じで、うまく飾れば名物になるのにな、と思った。
1997(平成9)年3月の秋田新幹線の開業と、2002(平成14)年12月の東北新幹線の延伸で、1982(昭和57)年の東北新幹線の大宮駅〜盛岡駅の開業で得た、新幹線と在来線特急との乗換駅の地位を失った盛岡駅に、駅弁屋が4社も入るのは商売として厳しいのではないかと思った。
なお、2004年10月に調製元が倒産したらしく、この駅弁は現在は入手できない模様。
※2004年11月補訂:終売を追記盛岡駅の幕の内駅弁の、村井松月堂バージョン。「味ごろも」と書かれた市販の仕出し弁当向け折箱に、調製元のシールを貼る。幕の内駅弁らしくなく12区画に分けた中身は、日の丸と錦糸卵とごまとゆかりの御飯で4区画と、おかずのメンチカツ、鶏唐揚、玉子焼に煮豆、焼塩鮭など。700円でこの内容ならお徳だと思う。
なお、2004年10月に調製元が倒産したらしく、この駅弁は現在は入手できない模様。
※2004年11月補訂:終売を追記模様や形状が上級な牛丼用容器を、ファンシーなデザインの掛紙で包み紙ひもでしばる。中身は駅弁の名前どおりで、御飯の上に大量の糸こんにゃくや刻み椎茸とともに牛すき焼き肉が載る。品質は良いのだが、年寄りには重く若者には高価で、客層に困りそうな駅弁。ただし2004年の購入時には、米国産牛の輸入停止で格安の牛丼店チェーンから牛丼が消えていたので、それならこの価格でも競争力がありそう。
この駅弁は、かつて盛岡駅で駅弁を販売したむつ弁の「南部の牛めし弁当」と、容器や中身がそっくり。同社が駅弁から撤退した時に、商品が引き継がれたのかもしれない。
なお、2004年10月に調製元が倒産したらしく、この駅弁は現在は入手できない模様。
※2004年11月補訂:終売を追記1963(昭和38)年に盛岡駅で発売。「こけし弁当」とはいえ、こけしは食材ではないため、中身は鶏ガラスープの炊き込み御飯に帆立や鮭やタケノコや栗が載る釜飯風弁当。その容器が特徴的で、こけしの頭を陶器で再現している。弁当箱なので本物のこけしよりかなり大きく、不気味に感じるかも。
なお、2004年10月に調製元が倒産したらしく、この駅弁は現在は入手できない模様。
※2004年11月補訂:終売を追記上げ底の容器に酢飯を詰め、カニのフレークと棒肉2本に、茎わかめと昆布みそ煮で覆う。飯とカニに流れ出た茎わかめの着色料、辛さが素材の味を減らす昆布みそ煮、そして風味のないカニ。物流と保存技術が発達した時代に、内陸の盛岡だから海の味はよくないということはないが、これは厳しい。
なお、2004年10月に調製元が倒産したらしく、この駅弁は現在は入手できない模様。
※2004年11月補訂:終売を追記1958(昭和33)年に盛岡駅で発売。正八角形の容器に、春夏秋冬の漢字が大きな掛紙をかけて、紅白の紙ひもでしばる。購入したものの中身は、写真のとおり鮭いくら丼。他に「うに・山菜」「栗・舞茸」などのバージョンがあり、かつてはこれらを季節で回していたが、後にどれも通年で販売するようになっているらしい。
なお、2004年10月に調製元が倒産したらしく、この駅弁は現在は入手できない模様。
※2004年11月補訂:終売を追記丸い容器の小さなイクラ丼・アワビ飯・ウニ丼の3個セットで1,020円。ひとりで3つ食べても良いが、味はもちろん彩りが美しいので、グループ旅行の車中で並べて食べたい駅弁。NREが東京都内の各駅で実施する駅弁催事でよく見掛けた。
なお、2004年10月に調製元が倒産したらしく、この駅弁は現在は入手できない模様。
※2004年11月補訂:終売を追記