新白河駅から電車で3分の隣の駅。白河市は福島県中通りの南に位置する、人口約6万人の城下町で宿場町。奈良時代かそれ以前から平安時代まで重要な関所が置かれ、1000年以上経過した今でも東北地方と以南を分ける地として比喩される。駅弁は明治時代から売られ、1982年の東北新幹線の開通で新白河駅にも進出したが、2000年代に消えた。1887(明治20)年7月16日開業、福島県白河市郭内。
東京駅から東北新幹線で約80分。東北新幹線の開通で、東北本線白河駅の隣の磐城西郷駅を改称した新白河駅は、福島県西白河郡西郷村にあり、全国で唯一の村にある新幹線駅である。駅弁は1982年の新幹線の開通で白河駅の伯養軒が進出、2000年代までにはここ独自の駅弁はなくなっていたようだが、今も近隣の駅弁が売店で買える。1944(昭和19)年10月11日開業、福島県西白河郡西郷村字道南東。
1976(昭和51)年3月20日の調製と思われる、昔の白河駅弁の掛紙。今も有名な高崎だるまの「だるま弁当」と違い、白河だるまの「だるまずし」でないだるま弁当は、1960年過ぎと1975年過ぎの短い間だけしか売られなかったらしい。
1976(昭和51)年3月20日の調製と思われる、昔の白河駅弁の掛紙。東北各地で見覚えのあるような絵柄で、調製元も当時の東北各地で駅弁を売った。
150円の価格から1971年頃のものと思われる、昔の白河駅弁の掛紙。名峰那須山、温泉マークだけの新甲子温泉、関所の門と碑を描く。左下に「東北線弁当販売株式会社取扱」と思われる印があり、東北本線の車内販売で売られたものだろう。「関のすし」は白河駅や東北新幹線開業後の新白河駅で、1960年代から1980年代まで販売か。
1960年代頃のものと思われる掛紙。鉄道や旅客向けの案内や連絡先がないことから、これは駅弁の掛紙でなく、団体客向けの仕出し弁当のものだろう。伯養軒は仙台駅などの駅弁屋であるとともに、東北地方の各地に支店や食堂を持つ食品業者でもあった。注文者の「京都秀岳旅行会」は、弁当店に専用の掛紙を刷らせるほどの大口団体だったのだろう。
1950年代頃、昭和30年前後のものと思われる、昔の白河駅弁の掛紙。伯養軒所在地に、1954(昭和29)年11月に北上駅へ改称した「黒沢尻」があるため、それ以前のものか。弁当の幕之内と相撲の幕内をかけたような、土俵入りの横綱と太刀持ちの絵柄。白河出身の力士がいるなどの特定の人物を表現したのではなさそう。
白河駅では明治時代から駅弁が売られ、1982(昭和57)年6月の東北新幹線の開業で磐城西郷駅改め新白河駅にも進出したが、1995(平成7)年頃に柳屋が、2002(平成14)年頃に伯養軒が撤退し、駅弁のない駅となった。郡山駅などの駅弁が新白河駅の売店に入荷することはあるらしい。
1950年代頃、昭和30年代頃の調製と思われる、昔の白河駅弁の掛紙。鳥居とキツネといなりずしという全国共通の内容に、小峯城址と駅名表記で白河を表現した。小峰城(こみねじょう)、白河城、あるいは白河小峰城は、白河駅の真北すぐ。南北朝時代から戦国時代まで、結城氏改め小峰氏あるいは白河結城氏の居城があり、江戸時代に二本松藩主の丹羽長重(にわながしげ)が再整備し、慶応4年(1868年)に戊辰戦争で焼失した。石垣の美しさと桜の名所と日本百名城で知られ、戦後昭和時代は石垣が残る公園のち野球場だったが、平成時代には再整備で三重櫓や前御門が新築され、城らしい風景を備え始めた。