東京の鉄道ターミナルのひとつ。1883(明治16)年の開業以来、東京の北の玄関口として、東北上信越地方や北海道連絡の長距離列車が100年以上ここを起終点とし、文学や歌にもよく表現された。1991(平成3)年の東北新幹線の東京駅への延伸や、2015(平成27)年の上野東京ラインの開業で、その役割を東京駅へ譲った。駅弁は東京駅と同じものが売られるが、昭和時代には日本食堂が支店を構えて別個に品を揃えた。1883(明治16)年7月28日開業、東京都台東区上野7丁目。
上野駅の駅舎の商業施設「アトレ上野」に入居するレストラン「ハードロックカフェ」が、店舗のリニューアルを記念して2014(平成26)年2月25日から3月3日まで提供した料理。アメリカにもロックの世界にもない「駅弁」を名乗り、駅弁の容器に見立てた真四角のトレーに、ハンバーガー、ビーフステーキ、マッシュポテト、ナスやエビなどの炒め物、チョコレートケーキなどを詰めた。注文販売、持ち帰り不可、注文から提供まで40分もかかるという、おおよそ駅弁らしからぬスタイルではあったが、こんな名前のメニューを出した店舗は、きっと世界中でここだけだろう。
2012(平成24)年夏の期間限定駅弁で、掛紙を見ると上野駅の駅弁売店「駅弁屋 匠」でのみの販売か。多くの駅弁で使われる長方形の容器を使用、中身は白御飯の上をウナギの蒲焼きで覆い、ダイコンの味噌煮と柴漬けを添えるシンプルなもの。浜松駅弁が二千円を超えるようなこの夏のウナギの高騰を考えると、なぜ例年通りの普段着な姿で出て来られたのか不思議である。
上記の「駅弁屋 匠」限定のうなぎ弁当の、2013年時点での姿。掛紙が横長から縦長に変わり、四角い容器が丸くなり、中身から柴漬けがなくなり、価格が60円上がった。それ以外は変わらない。
2011(平成23)年3月24日の上野駅商業施設「エキュート上野」内の駅弁売店「駅弁屋 匠」の開業に合わせて発売か。赤いトレーを接着した長方形の容器に透明なふたをして、商品名と店舗名を描いた黒い掛紙を巻く。中身は白御飯の上に牛タンを貼り付け、焼売と漬物を添えたもの。牛タンはどう見ても網焼きには見えないが、薄いなりに分量はあり、コショウの味付けが御飯に合う。仙台駅の名物駅弁と名称が一字一句違わないのは気になる。なお、今回は200円引きの1,000円で購入。現存しない模様。
※2017年4月補訂:終売を追記2011(平成23)年3月24日の上野駅商業施設「エキュート上野」内の駅弁売店「駅弁屋 匠」の開業に合わせて発売か。赤地に黒塗りな長方形の容器を、「匠」と記した朱色の掛紙で包む。中身は牛肉旨煮を載せた茶飯、コハダとキスとエビのにぎり寿司、かき揚げとタラの芽唐揚とジャガイモ揚、はんぺんやちくわぶなどのおでん、きんぽらごぼうとべったら漬。にぎり寿司は江戸前風、おでんは関東風ということで、それなりの個性はあると思う。現存しない模様。
東京駅に続いて2006年に開業した上野駅の駅弁売店「駅弁屋旨囲門」は、橋上コンコース商店街の改装により2010年10月に閉店したが、こうしてその半年後に名前を変えて再開業したため、東日本地区各地の駅弁が引き続き駅構内で買える。しかし旨囲門の頃は食べる場所を備えたウォークイン式売店であったものが、改装でカウンター型店舗になったため、現地での食べやすさは後退した。寝台特急が発着する13番線にあったベンチもほとんど撤去されている。
※2017年4月補訂:終売を追記上野駅構内のスーパーマーケットで購入した弁当。黒塗りの長方形の容器に透明なふたをして、まるごとラップで包んでシールをいろいろ貼る。中身は白御飯の上に鶏肉ぶつ切りの照焼をたくさん貼り、うずらの煮玉子、こんにゃく、大根醤油漬を添えるもの。現存しない模様。
かつて東北上信越方面の旅客でごった返していた上野駅の大屋根の下で営業するこの高級スーパーマーケットチェーンでは、各地の駅弁や駅弁のような弁当も販売しており、ここの商品を駅弁と紹介するブログも少なくない。この商品は見た目に惣菜だが、調製元は小田原駅弁の東華軒であり、「相州」つまり相模という調製元所在地の国名を冠するため、なんとなく駅弁っぽい。味は醤油風味のササミがおいしかった。しかし「相州」の表現は、今では武蔵の国でも相模でもほぼ使われていないと思う。
※2017年4月補訂:終売を追記市販の時刻表での表記は「ともこのよくばり弁当」。ボール紙製の弁当容器に「上野駅限定 膳まい」のシールを貼り、弁当の名前を記した紙帯を巻く。黒いプラ製トレーで9区画に区切られた中身は、日の丸御飯、赤飯、あさりめし、鶏立田揚、焼鮭、サトイモなどの煮物、牛肉とシメジなどの炒め物、ゼンマイ和えと玉子焼、レンコン炒めと大根生酢。食事としては悪くないが、「ともこ」と「よくばり」のアピールがまったくないため、駅弁としては特徴がない。2014年時点で現存しない模様。
※2015年2月補訂:終売を追記上野と金沢を結ぶ急行列車「能登」の廃止を記念して、2010(平成22)年3月1日から13日まで販売された記念駅弁。正方形の容器に木目柄のボール紙でふたをして、急行列車の写真をいくつも並べた掛紙を巻き、セロハンテープで留める。中身はイクラ付き白御飯とウナギ付き茶飯、ブリ照焼、有頭海老、カニ爪焼き、玉子焼、イカとサケの和え物、ホタテやタケノコなどの煮物など。
列車の運行経路にちなんだ内容は、大きな大きな焼ブリにこそ感心したものの、それを除けば千円を取るのが恥ずかしい並等幕の内。掛紙目的で買われる弁当だろうから、これでよし。掛紙のデザインはいい感じに決まっているし、しかも3/1〜4、5〜8、9〜13の各日で異なるデザインとしたそうな。
「能登」は東京と北陸地方を結んだ夜行列車。新幹線博多開業時の1975年3月に上野・金沢間で登場し、上越新幹線開業時の1982年11月に運行経路を上越線から信越本線に変更、のぞみ号博多延伸時の1993年3月に寝台と座席の客車から座席のみの電車に変更され、長野新幹線開業時の1997年10月に運行経路が信越本線から上越線に戻り、500系のぞみ号がなくなった2010年3月に廃止となった。
1993年に寝台車の連結がなくなってからは、1995年から1997年にかけての国内航空規制緩和による航空運賃の多様化、1997年の北越急行ほくほく線開業による首都圏から北陸地方までの所要時間短縮、1998年の均一周遊券(ワイド・ミニ周遊券)の廃止などの要因により、列車は長距離客ではなく深夜の帰宅客を運ぶようになっていた。
1991年2月の乗車時には寝台も座席も上野から金沢まで賑わっていたが、2000年10月の乗車時、上野駅で列車を満員にして大宮駅では乗り切れないくらいの乗客が、高崎駅を過ぎて目が覚めたらきれいに消えていたことが印象に残る。他の夜行列車が次々となくなる中、よくぞ2010年まで残っていたと思うし、廃止後は臨時列車として運行が継続されることが不思議に思える。
上野と金沢を結ぶ寝台特急列車「北陸」の廃止を記念して、2010(平成22)年3月1日から13日まで販売された記念駅弁。木目柄で長方形の容器を輪ゴムで留め、寝台特急列車の写真をいくつも並べた掛紙を巻き、セロハンテープで留める。掛紙のデザインは3/1〜4、5〜8、9〜13の各日で異なるデザインとしたそうな。
中身は白御飯の上をとりそぼろと玉子そぼろで覆い、ニンジンの星とグリーンピースで寝台特急を描くほか、おかずとしてカニ爪フライ、スパゲティ、カニカマロール、サトイモやタケノコなどの煮物、有頭海老、サケ塩焼き、ポテトサラダ、菜の花のおひたし、野沢菜漬、「北陸」と書かれたようかんなど。上記の「能登」に比べてまともな御飯とおかずが入っており、同じ値段ながら急行と特急の格差が付けられていた。
「北陸」は東京と北陸地方を結んだ夜行列車。1922年に登場した夜行普通列車がルーツであるそうだが、1950年に全国各地の急行列車に名前を付けた際に「北陸」となり、新幹線博多開業時の1975年3月に寝台特急へ格上げされた。以後は寝台特急列車にしては運行距離が短い地味な列車として、1980年代のブルートレインブーム、1982年の上越新幹線開業、1987年の国鉄分割民営化、1997年の長野新幹線開業などを横目に走り続ける。
末期の「北陸」は8両編成のうち4両を個室寝台が占める快適性を誇り、他の寝台特急列車が利用不振で次々に廃止される中で、「トワイライトエクスプレス」や「サンライズ瀬戸・出雲」とともに寝台券が取りにくい人気列車であったと思う。個人的にも寝台券が取れないため北陸旅行を取りやめたり、乗車して寝ていたら後から同じ番号の寝台券を持った乗客が来たりと、他の夜行列車ではもはや経験できない出来事に何度も遭った。
だから、2010年3月のダイヤ改正で利用不振により廃止と発表されたことが信じられず、これに対してマスコミの疑問や反論が出なかったことは報道統制であるとも感じられた。2015年に北陸新幹線が金沢まで延伸されれば廃止が避けられない列車ではあったし、廃止理由として併記された車両の老朽化は事実だと思うが、JRの都合により早めに体よく消されてしまった印象が消えない。
上野駅と札幌駅を結ぶ寝台特急列車「北斗星」の運転終了を記念して、2015(平成27)年8月1〜13、17〜23日に、上野駅の駅弁売店「駅弁屋 匠」と59号売店で販売。掛紙の写真はもちろん、寝台特急北斗星号。8月1〜10日と11〜23日で掛紙を変えて販売。
北斗星が走る沿線の地域をイメージした食材を入れたという中身は、掛紙の裏面に書かれるとおり、茶飯と白飯、ビーフシチュー、湯葉やワカメなどの煮物、有頭海老、合鴨スモーク、赤魚焼、ひじきとくわいのサラダ、玉子焼など。4か月前に食べた「カシオペアスペシャル弁当」との共通点を感じた。
寝台特急列車「北斗星」は、1988(昭和63)年3月13日の青函トンネルの開業に合わせ、一日2往復でデビュー。当時の他の列車には存在しなかった、シャワー室付きA寝台1人用個室「ロイヤル」、この列車のために国鉄が用意して上野駅〜青森駅の寝台特急列車で暫定利用していたテレビ付きA寝台2人用個室「ツインデラックス」、食堂車での7800円の予約制ディナー、そして本州と北海道を乗り換えなしで結ぶ列車が、バブル景気の時代に大いに注目された。列車は連日満員の盛況で、翌年のダイヤ改正では臨時の1往復も毎日の運転に。多客期には増便で一日片道最大5本の寝台列車が津軽海峡を抜けた。
その後は景気の悪化や航空運賃の値下げ競争などで利用は落ち着き、1999(平成11)年7月に同じ区間と経路で寝台特急列車「カシオペア」がデビューしたことにより1往復が廃止、2008(平成20)年3月に津軽海峡線での北海道新幹線の工事を理由に1往復を廃止、2015(平成27)年3月に車両の老朽化と北海道新幹線の走行試験を理由に廃止された。その後は臨時列車での運行を続け、8月21日の上野駅発、翌8月22日の札幌駅発を最後に完全に廃止、この駅弁が販売された。
2015年8月21日の調製と思われる、上野駅弁の掛紙。上記予告のとおり、販売期間の後半は違う掛紙、具体的には列車の写真のみが異なる掛紙で販売した。中身は同じ。
上野駅と札幌駅を結ぶ臨時寝台特急列車「カシオペア」の運転終了を記念して、2016(平成28)年3月1〜21日に上野駅と鉄道博物館で販売。掛紙の写真はもちろん、寝台特急カシオペア号。販売期間前半の1〜12日と後半の13〜21日で異なる掛紙を使い、写真は後半のもの。
機関車や客車と同じ銀色の容器に、列車内の予約制弁当「カシオペアスペシャル弁当」や食堂車の予約制ディナー「カシオペア懐石御膳」の内容を盛り込んだという中身は、青菜小海老を盛る白御飯、キンメダイ塩焼、かまぼこ、玉子焼、コンニャクやニンジンなどの煮物、鶏肉煮、じゃがいもやズッキーニなどのバター焼、イカと鮭の麹漬、たこバジル、べったら漬など。過去の寝台特急廃止記念弁当と同じ価格なのに、16年間売られたベースとなるメニューがあるからか、完成度の高さと、見た目と味の良さが印象に残った。
寝台特急カシオペアは1999(平成11)年7月16日の運行開始。JR東日本がオール2人用A寝台個室の客車を新造し、上野駅〜札幌駅の寝台特急列車「北斗星」1往復を置き換えて、1日あたり片道1本の運行を始めた。運行開始当初は片道約4万円という料金の高さでオフシーズンの利用が芳しくなかったように思えたが、全国各地で寝台特急や夜行列車が消えていくと、雑誌の特集記事が増え、人気が上がり寝台券が取りにくくなった。
2015(平成27)年9月に廃止が発表されるとチケットは蒸発し、転売の横行で相場が十数万円かそれ以上に暴騰した。それでも夜行列車の廃止を望むJRは理由を付けて、マスコミもそれをそのまま流して、2016(平成28)年3月20日限りで青森駅〜札幌駅の夜行急行「はまなす」とともに廃止した。というか、粛清された。「カシオペア」は運行開始以来16年と8か月に渡り臨時列車であったため、廃止ではなく設定終了となる。さすがに今回は、利用の不振という理屈は付かなかった。
1990(平成2)年12月14日12時の調製と思われる、昔の上野駅弁の掛紙。右上にJR東日本の観光キャンペーン「LOOK EAST」のロゴマークが、左下に日本食堂のロゴマーク「JD」みえる。日本食堂の上野支店の調製なので、ここでは上野駅弁としたが、在来線の東京駅でも売られたと思う。東北新幹線が東京駅に乗り入れたのは、1991(平成3)年6月のこと。
1987(昭和62)年4月の国鉄分割民営化の後に、日本食堂は6旅客鉄道会社のエリア別に分けられることとなり、同年6月に「にっしょく北海道」と「にっしょく九州」、翌1988(昭和63)年6月に「ジェイダイナー東海」と「にっしょく西日本」の分社ができ、本体はJR東日本エリアに残った。四国には日本食堂の営業がなく、「にっしょく東海」という会社が当時すでに存在したという。その間の1987(昭和62)年秋に、いわゆるCI(コーポレートアイデンティティ)としての「J・DINER(ジェイ・ダイナー)」が生まれており、本州3社の日本食堂がこれを使えたらしい。JR東日本エリアの日本食堂の駅弁なのに、JR東海エリアのジェイダイナー東海が2002(平成14)年10月の会社合併まで使ったJDマークがあるのは、このためである。
1983(昭和58)年1月1日7時の調製と思われる、昔の上野駅弁の掛紙。「賀正」の文字が左上に記される、正月限定の駅弁掛紙である。写真も目出度いものを使ったのではないかと思ったら、左下に「「民芸シリーズ」2わらべ三番曳(岩手)」とあるので、シリーズものの絵柄か。
1980年代の調製と思われる、昔の上野駅弁の紙箱。調製元の所在地の表記から、駅の中で調製されたことがうかがえる。
1980年代頃の調製と思われる、昔の上野駅弁の掛紙。上野らしい駅弁の名前だが、つまり中身は日本食堂の幕の内弁当ではないかと思う。イラストは上野公園にある不忍池だろう。今は小さく浅い文字通りの池だが、江戸時代まではもっと大きな池だったらしく、しかし全部が埋め立てられることもなく、この大都会で池のまま現存する。
1978(昭和53)年8月19日9時の調製と思われる、昔の上野駅弁の掛紙。現在は東京駅弁も上野駅弁も埼玉県戸田市の調理センターで調製されるが、当時は東京駅弁を港区港南の調理所で、上野駅弁を台東区東上野の調理所で調製していた。
1977(昭和52)年1月15日8時の調製と思われる、昔の上野駅弁の掛紙。うえのと掛紙に大きく書かなくても、西郷さんの銅像を描くだけで上野が表現できるのは便利だと思う。
1977(昭和52)年5月2日19時の調製と思われる、昔の上野駅弁の掛紙。下記の1976年12月のものと同じ。右の標語の「ゆづり合い」が「ゆずり合い」になった、調製元の表記が少し異なるという違いがある。
1976(昭和51)年12月24日7時の調製と思われる、昔の上野駅弁の掛紙。駅の隣の不忍池(しのばずのいけ)や寛永寺(かんえいじ)を描いたのか、どうもそうには見えない絵柄を使う。
1970年代のものと思われる、昔の上野駅弁の掛紙。「明治20年ごろの上野山下鉄道館(現上野駅)の風景」を描いたそうな。
1970年代のものと思われる、昔の上野駅弁の掛紙。特に何かを描いたものではなさそうだが、当時の上野駅から在来線列車で行けた東北上信越地方の風景をイメージしているように見える。
1971(昭和46)年7月12日8時の調製と思われる、昔の上野駅弁の掛紙。掛紙に描かれる西郷さん銅像を除くアイテムは、東北各地の郷土玩具か。
1960(昭和35)年12月3日の調製と思われる、昔の上野駅弁の掛紙。背景の短歌は「露おかぬ 方もありけり 夕立の 空よりひろき 武蔵野の原」。室町時代の武将である太田道灌が寛正5年(1464年)に上洛した際、後土御門天皇に武蔵野はどんな所かと聞かれて答えた即興の歌だという。
※2012年7月補訂:解説文の増強1960(昭和35)年12月3日5時の調製と思われる、昔の上野駅弁の掛紙。上記の掛紙「幕の内弁當」と、調製年月日からまったく同じもの。入手した経路は異なるので、この駅弁を買った人も違うと思う。この日に調製所から出て別れた掛紙が、60年半ぶりに一緒になった。
1953(昭和28)年3月3日の調製と思われる、昔の上野駅弁の掛紙。掛紙に駅名や所在地の記載がないが、収集者はこれを上野駅の駅弁とみなしていた。「等外米」の印字に時代を感じる。1952(昭和27)年から1956(昭和31)頃まで、政府配給の外食券が不要な等外米の駅弁が、各地で販売された。
1953(昭和28)年3月2日の調製と思われる、昔の上野駅弁の掛紙。調製印に上野とあるのでそう考えた。昭和時代の日本食堂は日本中で列車内営業を手掛けたため、この掛紙も全国共通、あるいは上野の営業所が持つ列車の車内調製品とも考えられる。どんな内容のサンドイッチだったのだろう。