名古屋駅から快速電車で20分。岐阜市は岐阜県の中南部で濃尾平野の北端に位置する、人口約39万人の城下町で県庁所在地。戦国時代に織田信長が地名を井口から岐阜に改めて以来の城下町であり、商業都市あるいは歓楽街としても栄えた。駅弁は明治時代からの駅弁屋が2005年6月に撤退、現在は名古屋駅の駅弁の一部が駅のミニコンビニで売られる。1887(明治20)年1月21日開業、岐阜県岐阜市橋本町一丁目。
駅弁がなくなった岐阜駅で、2010(平成22)年頃から売られるようになった朴葉(ほおば)寿司。調製元は岐阜市内で明治10年に創業した食品会社で、通販やデパートや空港で贈答品が売られる。小判型の御飯に錦糸卵と、きのこしぐれと書いてあるシイタケ煮や、小鮎やわらか煮を載せて、朴葉で包んでひとつずつ密封し、竹皮柄の紙に包んで掛紙を巻く。御飯が多めな岐阜の郷土料理。「駅弁」のシールを貼り、岐阜駅の駅弁であることをアピールしていた。駅では2016年の春頃に終売の模様。
※2020年5月補訂:終売を追記駅弁がなくなった岐阜駅で、2010(平成22)年頃から売られるようになった、アユの棒寿司。ごまとわさび菜を混ぜた酢飯に、錦糸卵をまぶしてからアユの開きを1匹分貼り、6切れにカットしてから笹の葉に包み、プラ容器に詰めて醤油とガリを添え、竹皮柄の紙箱に収めて掛紙を巻く。コンパクトな鮎寿司、あるいは包装が21世紀仕様な駅売りの鮎寿司。これにも上記の「朴葉寿し」と同じく、「駅弁」のシールを貼り、岐阜駅の駅弁であることをアピールしていた。駅では2016年の春頃に終売の模様。
※2020年5月補訂:終売を追記名古屋駅から新幹線で1駅10分。東海道新幹線の開業に伴い、岐阜県内で唯一の駅として水田の中に設けられた。羽島市は岐阜県南部の濃尾平野にある人口約7万人の市で、新幹線で百万都市を目指した住宅と田園の街。駅弁は、明治時代からの岐阜駅の駅弁屋が新幹線の開業とともに進出、2005年6月に撤退した後は、改札外の売店に名古屋駅弁の一部が入荷する。1964(昭和39)年10月1日開業、岐阜県羽島市福寿町平方。
駅弁と見なせるかどうか微妙な、岐阜羽島の駅弁屋さんのほうば寿司。農作業で弁当として持ち歩かれたという岐阜の郷土食であるほう葉寿司について、さけとえびをひとつずつ、ビニールトレーに入れて紙枠に収めてラップで包む。御飯の量がとても多く、手にも腹にもずしりと重い駅弁だが、ほう葉の香りと酢飯の軽さですいすいと入っていく。味気のないパッケージが惜しい。調製元が2005年6月8日に営業を停止し自己破産の準備に入ったことで、この駅弁は失われた模様。
※2005年6月補訂:終売を追記おそらく岐阜羽島駅の並等幕の内弁当格かと思われる。経木枠の容器に古地図風の掛紙をかける。中身は俵型風に型押しした白御飯と、鯖塩焼・焼蒲鉾・海老フライ・焼売・蒲鉾等のおかずを入れる。
具材の配置や冷凍食品を思わせる透明トレーで気分的に味を落としてしまうものの、個々のおかずは小さいながら惣菜弁当に負けない味と風味は出ており、東海道新幹線沿線の幕の内弁当としては高くない価格でまあまあの印象。なお、岐阜の駅弁は岐阜羽島駅を主戦場としており、岐阜駅で入手できる駅弁の種類は限られる模様。
調製元が2005年6月8日に営業を停止し自己破産の準備に入ったことで、この駅弁は失われた模様。
※2005年6月補訂:終売を追記1999(平成11)年3月の700系「のぞみ」登場を記念した駅弁。関西本線天王寺駅「王将」そっくりの将棋駒型容器を使用、中身は「玉」子焼き、「飛」騨牛コロッケ、六「角」いも、「金」時豆、「銀」鱈の幽庵焼、「うま」煮三品、「香」の物、花「ふ」という具合に将棋の駒の語呂合わせ。
美濃囲いとは将棋用語で、王を守る陣形の一種で、岐阜が発祥の地らしい。東海道新幹線随一の閑散駅である岐阜羽島に「のぞみ」は止まらないが、700系車両は「ひかり」でも使用されるため岐阜羽島にも停車する。
調製元が2005年6月8日に営業を停止し自己破産の準備に入ったことで、この駅弁は失われた模様。
※2005年6月補訂:終売を追記おそらく岐阜羽島駅の上等幕の内弁当格かと思われる。経木枠の容器に岐阜城と長良川を描いたと思われる墨絵の掛紙をかける。中身は俵型風に型押しした白御飯と、鰆塩焼・カニ爪クリームコロッケ・海老焼売等のおかずを入れる。具材の配置や冷凍食品を思わせる透明トレーで気分的に味を落としてしまうものの、個々のおかずは小さいながら惣菜弁当に負けない味と風味は出ており、そのレベルで上記の駅弁「美濃路弁当」より上位を確保しているが、両者とも内容に岐阜や美濃の雰囲気はない。
「井ノ口」とは、現在の岐阜にあたる地名。永禄10年(1567年)に織田信長が入城した際、中国・周王朝が岐山に発祥し天下を取った故事にちなみ、岐阜と改名したそうだ。それ以前は稲葉山城であった岐阜城、現在の天守閣は、慶長6年(1601年)の廃城から約350年も経過した1956(昭和31)年に再建されたもの。
調製元が2005年6月8日に営業を停止し自己破産の準備に入ったことで、この駅弁は失われた模様。
※2005年6月補訂:終売を追記1987(昭和62)年11月にJR東海の「新幹線グルメ」キャンペーンで誕生した駅弁。細長い長方形の容器の中身は、松茸御飯に椎茸スライスや丸ごとのマッシュルームとナメコやシメジと、名に違わずキノコづくしの駅弁。しかもその味付けが抜群。
大野伴睦代議士の政治力で水田地帯の真ん中に設置されたと言われる岐阜羽島駅は、人口百万人都市の構想が打ち出され碁盤目の街路整備が駅を中心に実施されたが、駅開業後約40年を経てもほとんどが田畑か空き地のまんま。それが逆にモータリゼーションの進展で駐車場用地として注目され、相変わらず東海道新幹線で最も乗客の少ない駅であるものの、新幹線とマイカーを結ぶパークアンドライドの拠点として利用が増加しているとか。
調製元が2005年6月8日に営業を停止し自己破産の準備に入ったことで、この駅弁は失われた模様。
※2005年6月補訂:終売を追記昭和50年代、1980年前後のものと思われる、昔の岐阜駅弁の掛紙。岐阜城を描いていると思われる掛紙の絵は、21世紀のものと変わらない。幕の内駅弁と幕の内風駅弁の差違はどこにあるのだろうか。
1972(昭和47)年6月14日16時の調製と思われる、昔の岐阜駅弁の掛紙。昔も今も長良川の鵜飼いは岐阜県を代表する観光資源。その写真を銅版画風に加工した写真を大きく載せる。その左下の「DISCOVER JAPAN」ロゴマークの形状から、そのまま拡大して観光ポスターにできそうな感じ。
1966(昭和41)年8月7日の調製と思われる、昔の岐阜駅弁の掛紙。東海道新幹線の編成案内があるので、岐阜羽島駅で売られたものか。当時は弁当殻をごみ箱に捨てる旅客が少なかったのか、掛紙で新幹線の屑物入れの位置を記し、3行分もかけて弁当の空箱は屑物入れへ旨呼び掛ける。1・2号車や11・12号車など2両単位の車両の間にトイレとごみ箱がある仕様は、新幹線電車として当時も現在も変わらない。
1966(昭和41)年8月7日16時の調製と思われる、昔の岐阜駅弁の掛紙。東海道新幹線の編成案内があるので、岐阜羽島駅で売られたものか。1904(明治37)年の発売とする資料もある岐阜駅の鮎寿司は、アユの駅弁として初期のもので、昭和時代にも有名な駅弁であったが、時代と嗜好の変化で平成時代までに廃れた。
1960年代、昭和40年前後の、12月18日10時の調製と思われる、昔の岐阜駅弁の掛紙。岐阜市の市内局番が1桁だった、1960(昭和35)年頃から1967(昭和42)年頃までのものか。ウがアユをつかまえる、鵜飼の光景が描かれる。今も岐阜の観光資源である、長良川の鵜飼。
昭和10年代、1940年前後の、不明月18日7時の調製と思われる、昔の岐阜駅弁の掛紙。長良川の鵜飼でもおなじみの、黒い鵜が二羽、凜々しく立つ。
1918(大正7)年5月8日8時の調製と思われる、昔の岐阜駅弁の掛紙。「岐阜名所長良川鵜飼略図」ということで、今も続く長良川の鵜飼が色鮮やかに描かれる。岐阜駅では明治時代から駅弁が売られ、1934(昭和9)年3月に合資会社嘉寿美館(かすみかん)加藤商店を設立、2005(平成17)年6月まで駅弁が売られた。